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第一章(2)
七瀬博士のいる研究棟は学内図に載ってはいなかった。不思議に思いつつも、やっと登り坂の終わりが見えてきて、ようやく件の研究棟の全容を捉えることができた。
他の学部の近代的な校舎とは違い、その建物は古く一回り小さかった。鉄筋コンクリートの二階建て。校舎の隣に見える温室の方が大きな位だ。裏側は鬱蒼とした森が迫り、温室に続いて三つのビニールハウスが並んでいた。
山の中腹に建てられた研究棟の入り口まで来ると、その扉の横には『東條大学農学部環境応用生命研究センター』と比較的新しい看板がかかっていた。
稜弥はひとつ息をつくと、後ろへと振り返ってみる。そこには自分が登ってきた緩やかな坂道に沿い、このキャンパスの全容が一望できて、改めて学舎の中心部からかなり離れたところにあるのだと痛感した。
研究センター前の小さな駐車場には一台の高級セダンと軽自動車が停まっている。黒のセダンが七瀬博士で軽自動車は学生か同僚となるポスドクの車だろう。稜弥も、ここに通うのなら自力の交通手段を考えなければと思った。
下界の景色をまた背にして、稜弥は顎先に滴る汗を拭った。初日だからスーツにネクタイ姿で来たのだが、すでに上着は取り払われ、ネクタイも外し、シャツの袖を巻くって襟元も弛めていた。とにかくこの国の夏は蒸し暑くて気分が滅入りそうだ。
上着を羽織り直すのも億劫になって、稜弥は入り口の扉を引いた。重たいガラス張りのドアが軋んだ音と共に開くと、廊下の奥からひんやりとした空気が足元を掠めて外へと流れ出た。
そのまま後ろ手に扉を閉めて日の差さない廊下を進んでいく。一階には等間隔にいくつかのドアがあるが、奥から二つ目のドアにやっと、『七瀬研究室』とプレートが掲げてあった。その横には『在席』と示されている。稜弥は一度、ネクタイと上着を着けようかと考えたが、やはりそれはやめてドアをノックした。
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