9 / 181

第一章(5)

「駄目だ。そうやってお前はいつも逃げようとする」  今度は男の太い声。先ほどの艶かしい声とは違い、こちらはやけに事務的だ。 「逃げてるんじゃなくて……。もうすぐ、彼が……来る、から」 「じゃあ余計に早く検体を出せ。大体お前が『あの時濡らした』なんて三日前のことを今になって言うから、俺は出張から帰ったばかりなのにすっ飛んで来たんだぞ」 「んっ……、そんなの、いつものこと……。あぁっ!」  甲高い声に耳をすませていた稜弥は思わず一歩後ろへ下がった。あの声は確かに七瀬博士のものだ。とても切羽詰まったような声。いや、あれは喘ぎというのか。  まだ、なかでは話し声がしている。稜弥は戸惑いながらももう一度ドアに近寄り、部屋を窺おうとした。すると……。 (……匂いがする)  どこからか甘い香りが漂った。それはほんの微かな匂い。普通の人には嗅ぎとれない香りを稜弥の鼻腔は感じ取った。  神経を研ぎ澄ませて匂いのもとを辿る。しかし、この部屋は窓も開いていないし、どうしても他に人がいる気配はない。ただの思い過ごしか、それとも窓際で咲いている花の香りを勘違いしたのか……。 「うぁ……、はぁっ……、あっ! 宣親っ!」  ドアの向こうから感極まった声と共に、より強く劣情を呼び起こす甘い匂いが空気中に霧散した。途端に稜弥の体の芯が熱を帯び、頭がのぼせ始める。 「ああ、しまった。遠沈管持ってくるのを忘れた。彩都、そこのシャーレ貸してくれ」  冷静な男の大きな声を背後に、稜弥は口許を抑えると、慌ててドアから離れて椅子に置いてある鞄を探った。 (くそっ、油断した。まさかこの建物内にオメガがいるなんて)  取り出したのは小さな銀色のケース。その中から一粒のカプセルを取り出すと素早く口へ放り込み、奥歯で噛み潰して飲み込んだ。

ともだちにシェアしよう!