70 / 181

第四章(10)

 稜弥が後ろ髪を引かれながらその場を離れると、彩都は案内された会議室への入室を運営スタッフに促された。ドアが開かれ中へと入ると、途端に数人の談笑と、彩都に気がついた帝都大学教授の坂上の弾んだ声が響いた。 「やっと我々のヒーローのご登場だ。七瀬君、本当に先ほどの講演は素晴らしかったよ」  どう見ても農学の研究者には思えない、ブランドのスーツに薄紫のシャツを合わせ派手なネクタイをした坂上は、両手を大きく広げて彩都を招き入れると、サッと隣に寄り添って背中に手を回してきた。稜弥にされたのと同じ行為なのに、なぜか彩都は坂上の手が不快に感じられる。 「いえ、坂上先生。拙い講演で申し訳なくて……」 「最高だったよ。あの空間に本物の七瀬彩都がいるというだけで、各国の研究者は日本までわざわざ足を運んだ甲斐があるというものさ」  部屋の奥へと誘われると、味気ない会議用のパイプ椅子に腰かけていた二人の男が席を立った。そのうちの一人の見知った顔に彩都はあっと声をあげた。 「島田さん、お久しぶりですね。ここのところ来ないからどうしたのかと」 「いやあ、ご無沙汰してすみません、七瀬先生。あのあと直ぐに海外研修がありましてね。後任の引き継ぎもできずに慌ただしく出国したものですから。俺のいない間、他のメーカーさんに浮気なんてしてませんよね?」 「島田さんくらいですよ、僕の研究室に足繁く通って下さるのなんて。それに神代くんを紹介してくれて、ありがとうございました。彼は本当に優秀でとても助かっています。そうだ、もう少ししたら彼もここへやってきますよ」 「会いたいのは山々なんですが、実はこのあと社長のお供でここを出ないといけないんですよ。七瀬先生にご紹介するのは初めてですよね? 弊社の徳重です」  島田が肩を少し引くと、その後ろに立っていた恰幅のいい男が彩都の前へと歩み出た。 「七瀬君が徳重社長と初対面だなんて初耳だったよ。私は個人的にもお世話になっていてね。トクシゲ化学薬品工業社長の徳重剛造氏だ」

ともだちにシェアしよう!