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第五章(1)
「がはッ! ゲホゲホッ……」
便器を抱え込んで胃のなかを空っぽにする。すでに二本の五百ミリペットボトルが空の状態で足元に転がっているが、ダメ押しで三本目をごくごくと飲み干して、次の胃のむかつきの波を待った。しかし、あらかた薬剤の成分を排出できたのか、割れるような頭痛も吐き気も治まってきていた。
稜弥はトイレの個室の壁に背中をつけてヨロリと立ち上がると、しばらくその場でじっとして目眩が落ち着くのを待つ。彩都が東條大学医学部附属病院の特別室へ消えていくのを見届けてから始まった体の異変は、やっと終わったようだ。
床に転がったペットボトルと一緒に個室から出ると、目についたゴミ箱にボトルを捨てて洗面所でうがいと顔を洗った。冷たい水のお陰で気分はさらにすっきりとする。稜弥は水が滴る鏡に映った自分の顔を見ながら、心のなかで毒づいた。
(セシルが作る急性発情抑止剤 は相変わらず効きが極端だ……)
あの時、彩都の悲鳴に坂上の控え室へ踏み込んだ稜弥は、部屋中に充満する彩都のオメガフェロモンの香りに当てられそうになった。素早く発情抑止カプセルを口に入れて噛み潰し、いつも携帯しているラットブロッカーの圧縮注射器を坂上の首すじに突き立てた。薬剤のあまりの効き目に坂上はその場で昏倒し、宣親とともにやってきた警備員の手によって拘束されたのち、密かにこの病院に運ばれて急性薬物中毒の治療を受けている。
(それにしても発情抑止カプセルを服用したうえに、ブロッカーまで使う羽目になるなんて)
彩都が放つオメガフェロモンは、稜弥が出会ったオメガの人々のものとはまったく違う。今までに嗅いだことのない甘く優しい香り。彩都の性質そのものの匂いなのに、それは緩やかに絡みつき、鼻腔を通り過ぎた途端に、人が長い間に理性と教育で抑えることを学んだものをいとも簡単に開放してしまう。発情期の初期段階であれほど大量のフェロモンを放出するのだから、アルファだけでなく暴力性質の強いベータにも少なからず影響はあるだろう。
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