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第五章(17)

 彩都は椅子から立ち上がって苗木のプランターの前に腰を下ろした。稜弥も同様に彩都の隣に座り込んだ。 「この桜はね、僕と一緒なんだ」 「先生と一緒?」 「そう、生まれながらに遺伝子の一部が欠損してる。つまり植物のオメガ」  彩都の笑みに一抹の寂しさを感じて、稜弥は黙り込む。 「人間と違って植物のアルファは存在しない。だから種が続かなくて絶滅してしまうんだ。僕は最初、欠損した遺伝情報を埋めてやれば普通の桜ができるんじゃないかと思った。でも、なにが欠損しているのかが最後まで解らなくて、次に視点を変えて試してみたのがアルファ種を作ってみること。それで最初に手掛けたのが当時、ストレス耐性テストをしていた小麦のアルファ化だ。結果として生まれたのがハイパーウィートなんだよ」 「どうして、桜の遺伝情報が欠損してしまったんでしょう」 「どうしてなんだろうね。もしかしたら人間に試す前の神様の実験だったのかな。ある日突然、種としての存続を絶たれた桜は、それでも子孫を残そうとした。だから季節に問わず、一斉に咲いたんだと思う。枯れていく運命に彼らは精一杯抗ったんだ」  彩都は組んだ両手に顎をのせて、 「桜と同じ運命を辿るのならば、僕らは新しい命を宿らせる器官なんて必要無いんだ。だけど失われた遺伝子を補うように、オメガは男女関係無く孕む器官を持っている。アルファやオメガといった人体の劇的な変化は、人類の神に対するささやかな抵抗だったのかも知れない。……なんて、科学の端くれにいる僕がこんなことを言うのも、おかしいけれどね」  彩都は黙ったまま、またプランターの苗木を見つめる。うす緑の小さな葉は少し風が吹くだけで容易く折れてしまいそうだ。それでも、その葉は懸命に光を取り込み、葉脈に水を通して大きく強くなろうとしている。植物たちは語ることができないからこそ、瑞々しく生い茂り、花を咲かせて実をつけて、逞しく生きている。

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