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第五章(19)

 彩都の返事に稜弥が小さく息を呑み込んだ気がした。しばらく無言で二人してしゃがんでいたら、稜弥の手が彩都の頭から離れていった。気持ちの良かった重みと温もりがなくなって心細い。思わず追いかけるように顔を向けると稜弥と目が合った。 「わかりました。先生の恋人は桜の花なんですね。でも、恋人に熱心なのも良いですが、そろそろ帰って休みましょう」  ここのところの稜弥は、彩都に対して以前よりも世話焼きになっている気がする。それに今のようにさりげなく触れられることも多くなった。距離感が近くて戸惑うけれど、心の奥ではほんのちょっぴり、それを期待していたりする自分に彩都は気づいていた。 (そうだ、今の神代くんなら、いいって言ってくれるかも……)  微かに笑みを浮かべる稜弥に彩都は弾んだ声で、 「あのさ神代くん、僕の頑張りを褒めてくれるのなら、帰ったらチョコミントアイス……」 「今日はすでに三個食べてるからダメです」  スパッと切り捨てられて彩都は、あう、と呻いた。 「おやつと夕食後のデザートだけって譲歩案を出したのに、どうして隠れて食べてしまうんですか。研究室の冷凍庫の奥に、東條先生が来る度に補充しているのも知っているんですよ。あの冷凍庫は先生のアイスクリーム保管用じゃ無いんですからね」  恨みがましく睨みつけてみたが、逆に稜弥にしれっと、 「そんなに可愛い顔をしてお願いされても、無理なものは無理です。アイスは一日二個まで。大人なんですから約束は守ってください」  稜弥はスッと立ち上がると上体を屈めて、座り込む彩都の頭をぽんぽんと撫でた。そして、 「約束が守れたら、またこうして誉めてあげます」  一気に体温があがった。彩都は慌てて立ち上がるとテーブルの上を片付ける稜弥にアワアワと言葉にならない声を発する。そこへ暢気に孝治と花菜が温室へとやって来た。 「七瀬センセー、桜の苗木見せてくださーい。……あれ? 先生、熱でもあんの?」  彩都は動揺を隠すために孝治と花菜を呼び寄せると、二人が眠そうにあくびを噛み殺すまで延々と桜の歴史について語り続けた。

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