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第六章(14)

 服を直し終わった稜弥は彩都を自分の胸に抱きとめたまま、その場でじっとしている。時折、稜弥の温かな吐息が首すじを掠める度に、うなじを舐められたときの感覚が肌に蘇った。あの感覚がなんだったのか、彩都はそれを知りたいようで知りたくない思いに囚われる。宣親との行為のあとは罪悪感で占められる胸の奥に、小さな喜びを感じるのはなぜだろうか。  本当なら今すぐ体を離し、礼を言って花菜のことを心配しなくてはならない。でも今はまだ彼の腕のなかでこうしていたい……。  こんな気持ちになるのは初めてだ。ふと、彩都は以前、稜弥とこの温室で交わした会話を思い出した。あの時、稜弥は彩都の髪を優しく梳きながら彩都に訊ねた。 『隣に寄り添ってくれる人を見つけようとか思わないんですか?』 (そうか、僕は……。彼に隣にいて欲しいんだ)  アルファでは無い、ベータの稜弥にずっと寄り添ってもらいたい。これはオメガが番う相手を求める本能とは違う、彩都という理性に生まれた小さな小さな願い――。 (ああ、本当に僕は。どうしてこんなに無理なことばかりに気づいてしまうのかな)  叶えようのない恋心に彩都は泣きそうになる。その時、稜弥の口元からなにかがプチンと弾ける音がして、稜弥のいつもの香水とは違う彩都の良く知る香りが流れてきた。その爽やかな匂いについ、彩都は軽口を叩いた。 「……ひどいな、神代くん。僕にはあんまり食べるなって言うのに、君は隠れてチョコミントを食べてるんじゃないか」  はっと息を吐き、気分を切り替えて勢いよく振り返る。無理に笑顔を作ったのに、彩都は稜弥の顔を見て自然に驚きの表情になった。 「どうしたの? 何だかすごく苦いものを噛み潰したような顔をしてるけど……」  稜弥は眉間に深い皺を刻み、口を真一文字に結んでごくんと喉を鳴らしたあと「何も問題はありません」と噛み気味に言って、急に真剣な表情になった。 「坂本さんを保護しました。今は東條先生が治療中です。俺たちも病院に向かいましょう」  稜弥の台詞に厳しいニュアンスを読み取って、彩都は不安げに頷いた。

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