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第七章(14)

 グッとシンクの淵を握る手に力を込めた時だった。ふわり、と漂った匂いに背筋を触られた。勢いよく振り向くと、険しい顔の稜弥に驚く彩都が立っていた。 「あの、風呂空いたから、どうぞ……」  ボディソープの香りも彩都のフェロモンを消せない。一瞬、気が遠くなりそうになり稜弥は奥歯を噛み締めた。そして「はい」と短く返事をすると、彩都と目を合わせないように彼の隣をすり抜ける。その稜弥に彩都が声をかけてきた。 「神代くん、話があるんだ。あとで時間をくれないか」 「……今日じゃないと駄目ですか」 「早いほうがいい。僕はこれから上の神社へあがる。君が来るまで待っているから」  稜弥が止める前に、彩都はあっという間に宿舎から出て行く。残された稜弥は拳を握り締めて、その場に立ち尽くした。  靴底が砂を踏み締める足音に彩都はゆっくりと振り返った。そこには満天の星空を背負った稜弥が俯き加減で立っている。暗がりの中、彼の持つ懐中電灯は彩都を照らしてはくれなかった。 「ここは東京とは違って沢山の星が見えるね」 「……話なら手短にお願いできますか」  稜弥が桜の下に立つ彩都を見ていないことは暗闇でもわかる。彩都は小さなため息をつくと、 「ここのところ君の態度がおかしいから……。どこか体調が悪いの?」 「いえ、先生に心配いただくことはありません。大丈夫です」 「そう。それじゃ、もう少し近寄ってくれないかな。君の顔も見えないし、互いの声も届きにくい」 「別にここでも先生の声は聞こえます。……特別用事が無いのなら、俺は戻ります」  稜弥が体の向きを変える気配がした。彩都は咄嗟に稜弥に言った。 「オメガの僕と一緒にいるのが、つらくなった?」  稜弥の動きが止まる。同時に彼が息を呑んでいるさまが、澄んだ空気を伝って感じられる。 「なぜそんなことを……。先生がオメガであろうとなかろうと、俺の中のあなたは、七瀬彩都という尊敬する人です」

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