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第七章(15)

「じゃあ、どうして僕を無視するんだ」 「無視なんかしていません」 「しているよ。東京を出てから妙に君はよそよそしい。特に昨日くらいからは顕著だ。……もし僕の研究室に飽きたのならそう言って欲しい。つい君に甘えてしまったけれど、本来なら君はもっと素晴らしい研究に従事すべき人なんだ。東京に戻ったら宣親に言って、医学部のゲノム研究室にでも……」 「――っ、違うっ!」  稜弥の声が彩都を押しとどめる。稜弥がまた彩都に向かいあった。 「俺が先生を嫌いになるなんてそんなことは絶対にない! 俺は……っ、あの日からあなたのことだけを想っていた!」  はあはあと稜弥が肩で息をしている。その時、急に海から強く吹き込んだ風が、この朽ちた神社の森の木々を激しく揺らした。その風のなかに、彩都は稜弥のつけている香水の匂いを嗅ぎとった。しかし――。 「……、なに、この匂い……」  それは二人同時に呟いた台詞。ざあざあと大きくなる葉擦れの音と同時に、キーンッと高い耳鳴りまでしてきた。周囲の気圧が急激に変わっている。そして空気のなかに充満する稜弥の香り。その香りに頭が痺れ、体に打ちつける音の波に抗うように彩都は強く両耳を押さえて目をつぶった。 「先生ッ!!」  稜弥の自分を呼ぶ声に薄く瞼を開く。暗さに慣れた目に飛び込んできたのは、懐中電灯を上に向け、驚いている稜弥の姿。彩都も稜弥が照らす先に視線を向けて、その現象に言葉を失った。  照らし出されたのはエドヒガンのしっかりとした枝先。その枝についている固いはずの蕾がつぎつぎとほころんでいく。それらは早回しの映像のように開花を始め、花が開く瞬間に響く小さな破裂音が無数に重なり合って空気中を揺らし、桜の巨木は二人の目の前でみるみるうちに薄紅色に染まっていった。 「これは……、一体なにが……」  信じられない光景に周囲を見上げて呟いた彩都は、はっと思い出した。それは亡くなった祖父が語っていたこと。あの世界を恐怖に陥れた桜斑病が始まる前兆の風景――。

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