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第八章(7)

***** 「君が……、アルファ……」  伸ばした指先が稜弥の手に触れそうになった途端、稜弥は急にその腕を退き数歩後ろへと下がった。 「っ、先生っ、早く逃げてください!」  粗い呼吸の間から絞り出された言葉は、いつもの彩都の知っている彼のものだ。 「このままだと俺はあなたになにをするかわからない。だから早くっ!」  気迫の籠ったその声に彩都も自分を取り戻す。彩都は慌てて立ち上り、苦しげな稜弥の前から去ろうとした。ところが……。 (――、足が……、動かない)  早くこの場から逃げなければという焦りと、このまま目の前の男に体を投げ出したい焦燥が彩都の胸に吹き荒れる。耳の奥で響いていた高い耳鳴りに代わって、今は木々のざわめきが彩都を包んでいる。彩都は頭を掻き毟って劣情に堪える稜弥から、視線を夜の空へと向けた。  満天の星を覆い隠し、咲き乱れる桜の花。それは花弁を震わせ、吹く風に芳しい香りを混ぜて、ようやく花開いた喜びを謳歌している。その花のひとつひとつが瞳に飛び込んで来ると、混乱する彩都の心はやがて確かな想いにまとまった。  彩都は後退り、その歩みは桜の巨木に止められると、背中についた幹を伝ってゆっくりと根元に座り込んだ。その彩都の行動を、顔を覆った指の隙間から見ていた稜弥が叫ぶ。 「なにをしているんだっ、早く俺の前から!」 「……無理だよ、もう遅い」  ぽつりと呟いた彩都に稜弥が大きく目を見開いた。桜に凭れる彩都は両足を投げ出し、稜弥をまっすぐに見据えて、着ているシャツのボタンを外しはじめる。 「僕はゼロ世代のオメガだから今の想いが本能の囁きなのか、それとも自分の気持ちなのか、はっきりとはわからない。けれどこれだけはわかる。きっと僕は……、君を拒むことはできない……」

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