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第九章(5)

 残念ながら、作業説明会では七瀬博士らしき人の姿は見えなかった。説明が終わると検査器具を渡され、学生たちは散り散りになる。稜弥は運良くセシルと隣の区画となったが、彼女の姿は見えないほどに広大だ。それに主要な研究者はみんな、センターと称した農場の家屋に陣取っていて、その家屋さえもここからでは望めなかった。  稜弥はひとつため息をつくと休憩にしようと、背丈を超える麦穂を掻き分けて畑から出た。木陰に座り、先ほどセシルが差し入れてくれたクーラーボックスのなかを確認する。なかには冷たいミネラルウォーターのペットボトルと、食べごろのカップのアイスクリームが入っている。そのアイスを見て、稜弥は今度は大きなため息をついた。  ペットボトルの水で喉を潤して、稜弥はアイスクリームのふたを開けた。やはり嫌な予感は的中だ。それはカップぎりぎりまでぎっしり詰まった淡い水色のチョコミントアイス。稜弥がチョコミントが苦手なことを知っている、セシルのちょっとしたいたずらだ。  セシルはチョコミントが好きで、気がつけばよく食べている。稜弥は、この味がマウスウォッシュを食べているようで好きになれなかった。それでもセシルが差し入れてくれたチョコミントアイスを少しずつ口に運んだ。   「タカヤはまだ子供だから、この美味しさが理解できないのね」  二つ年上のセシルは常に姉のように接してくる。他のアカデミーの仲間も、十六にもなるのにあまり体が大きくない稜弥を子供扱いした。   (俺だってもう少ししたら父さんくらいに背も延びるし、体格だって他の奴らに負けなくなる)  木陰に座り、もらったアイスに悪戦苦闘していると、急に目の前の小麦畑がガサガサと大きく揺れた。動物でも歩いているのかと身構えた稜弥の耳に「えっ。ちょっと、あれ? ここ、どこ?」と不安げな声が聞こえてくる。それも久しく聞いていない日本語だ。アイスのカップとスプーンを持って、じっと小麦畑を見つめていると、やがて麦穂が二つに割れて、ひょこんと一人の若者が顔を出した。

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