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十
『こうするんですよ』
だた一度、教えるためだけに唇を寄せた。私は、一度も貰えなかったものだから。
月明かりに照らされて、縁側に伸びる長い影があの日の宙をさ迷う私の手を思い出させるので、この子だけには同じ思いをさせたくなかった。
私の代わりに幸せに。
ただに一度だけ。ただ一度だけ触れた。
彼の唇は柔らかくて、外で元気に走り回っていた太陽の匂いがした。
セクシャルな意味ではなく、ただそうしたかったから。
紫呉は私が学を教えると、ぐんぐん吸収していった。
小生意気なワンコも可愛いけれど、知識のあるかしこい柴犬も愛い。
手放すのは胸が痛んだけれど中学からは学生寮ないし寄宿舎がある中学を調べてそこに入れた。この、世界と遮断された山奥の館で一生を終えてはいけない。
先ある若い彼に、世界を見てほしかった。
なので、ペットを飼っていたのはほんの数年。旦那様と結婚していた時期とほぼ同じぐらいの短い期間だった。
長期休暇には帰ってきた紫呉は、高校生になったとき反抗期なのか三年間一度も帰ってこなかった。
晤郎が心配して、何度か寮を訪ねてからは葉書が届くようになったぐらいだ。
私と紫呉の関係が変わったのは、彼が大学を出てからだ。
雲仙寺楓、31歳。
雲仙寺紫呉22歳。
ようやく口うるさいジジババを黙らせ、紫呉を母親の旧姓に戻してあげた時だった。
流石に私の養子には、彼も嫌がっていたのだか。
――だが。
「ちょっと待ってください。紫呉、今なんて言いました?」
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