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再会 十五
「顔をあげてください。もう怖くないので」
少し動いて消された灯りも付ける。すると、これでもかと下がった眉に泣きそうな顔の紫呉が顔を上げる。その顔を見たら胸がいたんでしまう。
真っ赤になった額に手を伸ばすと、今度は紫呉が後ずさる。
「駄目だよ。好きだって言った男に簡単に触れたら」
「でも私には、貴方は可愛い子どものままで。子どもとして好きと言うのは駄目ですか」
「だめ。恋愛がいい」
「……晤郎を呼びましょう」
嘘をついていない目。嘘をついていないからこそ、私も向き合わないといけない。
「これは俺と楓の問題だろ。晤郎を呼ぶなよ」
「そうじゃなくて、貴方を子どもと思っていたから、だから伝えていないことが多すぎて。今後もここに居たいなら、言っておかないといけないことを思い出したんです」
私が説明しても難しいので、晤郎がいい。晤郎を呼ばなくては。
「逃げるなよ。楓は知らないだけだろ。俺が楓のしてほしいことも、したいことも、できなかったことも全部――」
「騒がしいですよ」
立ち上がって大声で叫んでいた紫呉の背から声がする。
その声に、ホッとしてしまった私は着物の合わせを掴むと下を向いて体の力を抜く。
紫呉の声は大きく、低く、夜の空気によく通る。
心の、知ってはいけない部分に当って反響して心がざわざわしていた。
「晤郎さん。旦那様の遺産相続や今の状況について、彼におしえてあげてください」
「はい。すみません、先に湯を頂きまして」
「いえ。私は朝風呂派なので。でも今日は、今から入ってきますね」
押し入れから適当に浴衣を取り出すと、紫呉の横を無言で通り過ぎる。
視線が私から離れなかったのは、分かっていた。
けれど私は合わせてあげられない。それが正しいことなのか愚かなことなのかもわからない。
「俺。どんな説明をうけても、楓のそばにいる。離れないし、楓には俺がいるから」
「紫呉」
晤郎の制する声に抗うように乱暴な足音が遠ざかる。
私は生まれたてのひよこみたいな、情けない足取りでお風呂に向かう。
一歩一歩、歩きながら、頬が熱くなった。
古い屋敷は、歩くたびに少し軋んだ音を鳴らす。
古い屋敷は、小さな風さえもゴトゴト音を立てる。
熱くなった頬に、緩んだ視界。
鼻がつんと痛くなると、涙が込み上げてきた。
嗚咽を上げながら、廊下の真ん中で蹲って、声にならない声で叫んで泣いた。
この涙の理由が分からない。この涙は、私さえ知らない、隠れていた心が痛んで泣いた涙。
誰かを好きになるということ。
それができる紫呉に、私は傷ついている。
そして傷つけている。そして、苦しい。
この苦しさの意味を誰にも聞けず、お湯で流してしまいたかった。
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