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第8話

恭一郎を送り出した聖は、キッチンの換気扇のスイッチを入れると、その場に座り込んだ。 そしてポケットから携帯用灰皿とタバコ、ライターを取り出す。 1本だけタバコを取り出して、ライターで火を点け、換気扇に向かって大きく紫煙を吐き出せば、白くたなびく煙の筋が上へ上へと吸い込まれていった。 「姉弟揃って同じ男に惚れる、かぁ……」 時は1年前に遡る。 あの日も桜の花びらがあちこちから舞い込んで、春のうららかな陽射しに包まれていた。 聖は研修医を終えてΩ専門医となり、今の大学病院への就職を決めていた。 『ねぇ、恭ちゃん。アタシ、どうもアナタのことが好きみたいなんだけど』 病院の近くに恭一郎を呼び出した聖は、桜並木の中にあるベンチに並んで座りながら、告白なるものをした。 『えっと、やっぱり難しいかなぁ?圭ちゃんに言いにくい?』 今思えば、どうしてあの時オーケーしてもらえると思ったのだろう。 恭一郎は聖を特別視していないと分かりきっていたのに、気持ちを告げているうちに何となく有頂天になっていた気がする。 『アイツに言う必要はないけど……』 『でも、いずれバレるわよ?』 恭一郎の言葉遣いが変わったのは、この直後のことだった。 しばらく静寂が続いた後、彼は何を思ったのか「聖さん」と呼んでいたのを「葛城先生」と呼ぶようになる。 『バレることはありません。俺があなたと付き合うことはありません、葛城先生』 『ちょっとぉ、先生って何?そりゃアタシは医者だけど、幼馴染に先生なんて呼ばれるのには抵抗あるわぁ』 『じゃあ慣れてください。俺はあなたと付き合う気はありません。失礼します』 即答だった。 恭一郎は聖が思っていた以上に、聖を女として見ていなかった。 そして今。 加納恭一郎という男は、あの頃と何も変わっていなかった。 聖に向ける視線はお世辞にも温かいとは言い難く、口調だって丁寧語のままだ。 じゃあ圭ならいいのだろうか──? 認めるのは悔しいが、恭一郎にとっては聖よりも圭の方が大切な存在なのだろう。 そうでなければ、あの男が1週間寝泊まりをする準備のために自宅へ戻るはずがない。 「いいな、圭ちゃんは……」 何がいいものかと思う一方で、事恭一郎に関してのみ、羨ましい。 圭の話によれば、恭一郎は大学からこの家までタクシーで送ってくれたということだった。 タクシーを降りてわらわらと寄ってくる輩を、力で追い払ったとも聞いている。 「アタシがΩだったら、恭ちゃんに守ってもらえたのかなぁ……って、いくら独り言でもこれはタブーなセリフよね」 吸い終えたタバコを携帯灰皿の上で揉み消すと、聖はその場から立ち上がって圭の部屋のドアを小さく開けてみた。 「っ!?」 たまらず息を飲んだのは、圭がすっかり目覚めていて、ベッドの上に上体を起こした状態で泣いているからだった。 「圭ちゃん!?どうしたの!?」 「……姉ちゃん、恭一郎は?」 「今、ちょっと荷物取りに帰ってんのよ。1週間ここにいてくれるって言うけど、何の準備もなしでいるのは難しいでしょ?」 「ホントに……?」 もしも圭が恭一郎に拒絶されてしまったら、彼は立ち直れるのだろうか。 聖の心中に新たな不安が渦巻き始めた。 今の圭は完全に恭一郎に依存し、恋慕し、求めている。 そんなΩの想いに、聖を冷徹な言葉で振った彼は、どんな風に話しかけるのだろう。 まさか「男に好かれたって困るだけだ」などと言ったりしないだろうか。 「圭ちゃん、アンタ、やっぱり……?」 「そうだよ、恭一郎が必要なんだって……アイツがいないと、おかしくなりそうだ」 「そっか……アンタの恭ちゃんに対する気持ちは、本物なのね……」 今までなぜ言わなかったのだろうと考えるが、「好き」というブロックワードがあるΩが、「恭一郎が好きなんだ」などと言えるはずがない。 ならばせめて聖が誘導尋問をして、圭に問うていればよかった。 「アタシの心の方が、折れちゃいそうだけどね……」 1年前に負った失恋の痛みが、胸の内側でぶり返す。 だが同じ痛みを圭に味わって欲しくないと、心から思う。 ただでさえ男性Ωという稀少な存在で、大した症例もない中手探りで生きているというのに、これ以上惨い経験はさせたくないというのが姉の願いだった。

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