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第9話
圭の家から恭一郎の一人暮らしの家までは、私鉄に揺られて数駅下った場所にある。
閑静な住宅街の一角にある賃貸マンションで、間取りは1LDK、圭の家よりリビング分が広いという造りだ。
室内は至ってシンプルである。
恭一郎自身が華美な装飾を好まないため、生活するのに必要最低限のものしか置いていない。
リビングにはソファとガラス張りのテーブルと大画面のテレビが、寝室兼勉強部屋にはベッドと勉強机しかない。
カーテンやリネンの色を薄いグレーで統一しているので、圭の部屋よりはシックな感じがするなと思う。
「まったく……どういうことなんだ、圭……?」
恭一郎は帰宅するなり後ろ手に閉めた玄関に背を預け、ズルズルと重力に逆らうことなくへたり込んだ。
Ωのフェロモンはβやαの性欲を刺激するものだと本で読んだことがあるが、どこか他人事のように考えていた。
それが今日、実際に身近な人間が原因で刺激された連中の怖ろしさをまざまざと思い知らされたのだ、すくみ上がらない方がおかしい。
とにかく速まっている鼓動を落ち着けようとしばらくうずくまっていると、LINEの着信音が聞こえ、スマホをポケットから取り出した。
送信者は圭だった。
『あとどのくらいで戻れる?』
どう返答すべきなのだろう。
ここで「戻らない」という選択肢を選ぶことはできるのだろうか。
だが事態は一刻を争う。
帰り際の圭のマンション付近は警官達によって静かになってはいたが、あの匂いを忘れられずに再度訪れる者もいるかもしれない。
そんな時、圭のそばにいるのが聖一人だったら、相手を退けるのは難しいだろう。
『1時間だ、待てるか?』
仕方なくそう返信した。
本当はもっとゆっくり頭の中を整理したいところだが、圭が自分を待っているのはよく理解できている。
告白までされたのだから、知らないなどとは言っていられないのだ。
『ギリで大丈夫。待ってる』
そこでメッセージは途切れ、恭一郎はシンプルな室内のあちこちを漁って、必要な衣類や洗顔道具などを少し大きなボストンバッグに詰め込み始めた。
「恭一郎、あと1時間で来るってさ……」
圭はスマホでLINEのメッセージを確認すると、ベッドの下に座っている姉に話しかけた。
「そう。あのさ……」
「何?」
「アンタ達、男同士なんだけど、その辺りは大丈夫なの?その、抵抗とかないワケ?」
聖としては、自分はさておき弟の身が心配だ。
恭一郎の態度が頑なだったのが余計に不安を増幅させているように思う。
「あるに決まってんじゃん」
「じゃあ、どうして恭ちゃんなの?あの子だって圭ちゃんと同じで抵抗あるかもしれないのに、どうしてリスク大きい道を選んじゃうかなぁ」
ベッドの上に仰向けになっている圭は、姉の心配を有り難く胸に刻むと同時に、自分の気持ちを素直に伝えておくことにした。
「姉ちゃんならさ、親友のΩが外出先で突然ヒートに見舞われたら、どうする?」
「どうって……抑制剤飲ませて、一緒に帰るかなぁ。危ないもん、一人にはできない」
「何を使って一緒に帰る?」
「電車とか、徒歩とか……相手の子がいつも通学に使う手段を使うわよね」
ところが、恭一郎はそれでは危険過ぎると判断し、タクシーで送ってくれたのだと暴露した。
1万円を超えてしまったが、カードで立て替えてくれていることも、同時に伝える。
「タクシー、使ったことは聞いたわ。まぁ、社会人ならアリだと思うけど、学生ではあんまり浮かばない発想よねぇ……」
「アイツは俺がΩだって知った直後、『タクシーで帰る』って決めてた……こんな俺でも、大事にされてんのかなって……思いたい……」
どうして「好き」だと言えないのだろう。
言おうとすると、声帯が凍て付いて声にならなくなってしまう。
だから「好き」以外の言葉を駆使して、恭一郎に寄せる想いを理解して欲しい。
それにしても好きでΩに生まれた訳じゃないのに、現実はどうしてこうも残酷なのだろう。
圭の眦に溜まった涙が、静かに枕を濡らし始める。
せめてもっと生き易い世の中だったら、こんな自分でももっと何かに貢献できるだろうに、今の圭は自分だけの力で立ち続けることすら難しい。
恭一郎の目には、この世界はどう映っているのだろう。
そこまで考えたところで、圭はゆっくりと瞼を下ろした。
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