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第16話
圭はこれで用事は終わりだとばかりに、ソファから腰を上げようとしたが、その瞬間教授に呼び止められた。
奥寺の方からも、圭に言いたいことがあるのだという。
「さて、君の同意書がとれたところで来春から男性Ωの研究が本格的に始まる訳だが、果たして君は本当に被検体を望むのかね?」
「今更、何を……?同意書はもう出しました」
「ふむ……」
教授はしばし顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて参ったとばかりにお手上げのポーズをして見せた。
「加納君、出てきたまえ。葛城君の言い分はもう十分理解しただろう?」
「っ!?」
圭はハッと息を飲んだ。
教授室の応接セットの死角から、恭一郎が姿を現したからだ。
「ご協力ありがとうございました、奥寺教授」
「まあ、番を持つΩは被検体には向いていないのでね、仕方がないと思っている。それより彼は頑なだ、どう説得するかね?」
「それは自分と葛城の間で決めることですので、ご心配なく」
一体何がどうなっている──?
なぜ恭一郎がここにいて、涼しい顔をして圭の腕を掴み上げている──?
圭は腕を掴む恭一郎の手を振り払い、「どういうことだよ!?」と声を荒げた。
決死の覚悟でここまで来たというのに、どうして邪魔をするのか本気で分からない。
もっとも、圭が恭一郎の思考を理解したことなど、一度もないかもしれない。
いつだってポーカーフェイスで、腹の内を見せてくれない。
そのくせ圭のピンチには必ず駆け付けるのだから、どういう嗅覚を持っているのかと疑問に感じるばかりだ。
「行くぞ、圭。ここは教授室だ、あまり声を荒げると医局まで響いて教授のご迷惑になる」
「けど!」
「奥寺教授、その同意書はこちらへ。信用していない訳ではありませんが、自分の手で捨てたいのです」
奥寺は恭一郎の言い分を聞くと、苦笑しながら同意書を手渡してくれた。
「なんでお前がそれを受け取ってんだよ!?俺のだ!」
「奥寺教授が所有権を放棄したんだ、もうただの紙切れだ」
「紙切れって……」
あんなに悩んで決断し、恭一郎が帰宅した翌日に署名して大学病院まで駆け付けたというのに、どうして恭一郎は先回りできたのだろう。
よくよく考えると、おかしなことではないだろうか。
そう思っているうちに圭は恭一郎によって内科の医局外へと連れ出されていた。
「お前、マジで何考えてんだ!?」
「その台詞、お前にそのまま返してやる。俺は『顔も名前も知らない将来の10人より、お前のことを大切に想っている』と言ったはずだ。それに奥寺教授は番候補のいるΩに興味はないと仰っていた」
「けど!じゃあ、俺卒業したら、どうやって生きていけばいいんだよ!?」
「その話は、屋上ですることにしよう」
エレベーターホールまで歩いたところで、恭一郎はぶっきらぼうにそう言ったきり、口を噤んだ。
圭の行動には怒りを感じるが、自分が圭だったらどうするだろうと考えると、簡単には責められない。
ただ、人権を一切顧みない実験が行われることは明らかだったし、その対価として金銭を手にしたとしても、きっと嬉しくも幸せでもないだろうということだけは分かっているつもりだった。
エレベーターに乗って屋上の一つ下の階で降りると、階段を使って屋上へと出る。
外は春の生暖かい風がそよそよと吹いており、眼下に見える景色の中に八重桜の桃色が鮮やかさを帯びてに視界に入り込んできた。
恭一郎は圭の前を歩き、鉄柵に背を預けて身体の向きを変えた。
圭ものろのろと歩いて彼と向かい合う。
「どういうことだよ?」
「お前が昨日誰から電話をもらったのか、俺は画面を確認していた」
「っ!?」
「奥寺教授はオメガバースの権威だ。大方男性Ωであるお前にロクでもない話を持ち込んだんだろうと踏んだ」
奥寺との電話を終えた圭は、実は大学病院の被検体になれという話があるのだと恭一郎に暴露している。
それが恭一郎の行動の決め手だった。
圭は多分卒業しても就職できないことにジレンマを抱えるあまり、被検体となって報酬を得ようとするだろう。
そうなれば、圭が次にとる行動は、奥寺に同意書を送るか、同意書持参で教授室に押しかけるかだろうと推察した。
ただ、恭一郎はなぜだか圭が同意書を郵送するとは思えず、彼が教授室に来る20分ほど前に奥寺に会って事情を説明し、一芝居打ってもらったという訳だった。
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