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酷いこと、された。
台所から、水音がしていた。ぼんやりした頭で、その音を聞いていた。蛇口から迸る水を、誰かの手が遮っている。ざーざーと、びちゃびちゃと何かを濯ぐ音がする。
セックスの余韻が残っている気がした。
まるで他人事のような天井。上下する腹。その上で乾いた一史と晴人の精液。直腸を抉られて、その更に奥深い場所に種付けされた。深い、深い、場所に。指先を動かそうとすればひくと人差し指が動いた。
人生で初めてのアナルセックスは天地を逆転させるほどの衝撃だった。
あの人の、強欲を見た。
思い出して、体が震えたが、それが何によるものか、一史には判らなかった。なぜか不意に少し着崩したスーツの姿を思い出した。今は、月に数回しかスーツを着ない。
仕事の先輩だった、入社三年目でデスクを任されてて、気さくで、信頼の置ける先輩だった。この人の下で働くのが好きだった。
なのに、仕事を辞めた。それは、晴人が潔く真っ直ぐすぎるせいだったと、一史は知っている。知っていても納得できなくて追いかけた。追いかけて、この部屋に転がり込んだ。
真っ直ぐすぎる目が、自分を見ていた。
小さく、咳が出た。
絞められた首を、思い出したからかもしれない。
咳に反応して空気が動いた。
水音が、止まる。
台所の 床が軋む。足音が近づいてくる。どんな顔を作ればいいかわからない。
自分がここに転がっているということは、今立って、こちらへ向かってくるのは晴人だ。間違いは、ない。
近付いてきて、それで、
心音が高まる。尻の奥が疼く。腹の中にまぶされた粘液の感覚が、開かされ、押し付けられた股関節の痛みが脳に甦ってくる。息が、熱くなる。頭の芯が溶けそうになる。体温が近づいてくる。あのとき、自分が気づかなかった、体温がこんなにも如実に、近づいて、
「そんな格好してると風邪引くぞ」
表情を作る前に、晴人が上から見下ろしてきた。
犯すぞ、じゃ、ないのか。
強欲を見せた目は少し眠たそうで腹の上の精液も、絞められた首の痛みも、今日のものではないことを思い出していた。
「飯、食うか?」
視界の大半を占めていた晴人の顔が消えしなに呟く。出汁の匂い。パックの。
「おかえりなさい」
台所に向かう後ろ姿に声をかける。Yシャツ姿の背中が一瞬跳ねる。
「……ただいま」
跳ねて、少しだけ視線を向けて、応える。
剥き出しの上半身にスウェットを被る。敷きっぱなしの布団を端に避けて座卓を出す。窓の外を眺める。黄昏時は過ぎて、向かいのマンションの灯が点っていた。
「飯は?」
「いただきます」
味噌を溶く音。煮魚の甘い匂い。
いつもと同じ。
「仕事、行ってきたんですか?」
「……行ったよ」
小鉢を運びながら晴人が応える。
仕事を辞めた晴人がなんの仕事をしているのか、一史は知らない。今日は、Yシャツを着ている。多分、それがあの日のことを潜在的に思い出させてる。袖を捲って露出した腕は血管が浮き出てる。釦を外した胸元が、少し汗ばんでいた。
「お前は?」
「今朝方、帰りました」
「今、お前がデスクだもんな」
そう言って薄く、笑う。他愛ない、話。あの時噛まれた肩の歯形も、乱暴にされた体の痕も全部、薄くなって、まるで全て、夢かなにかだったみたいだ。
「また、明日から取材 だろ」
味噌汁を啜りながらまた、目が伏せられる。
「……ぁ」
いい掛けた言葉が、唇を開かせたままで止まった。
「何?」
「いや、何でも、ないです」
伺うようにこちらを見た晴人に口ごもって白米に口をつけた。
離れるな、
って、言ってませんでしたか。
そう口にしたら、まるで自分が束縛されることを望んでいるようで、口に出すことができない。
解した魚の身を晴人の箸が口に運ぶ。唇の合間に白い歯が煌めいた。ぎゅっと、胸が痛んだ。触れていない胸の粒が芯を持って固く張るのを感じた。その歯で乱暴に噛みつかれて、前立腺まで電撃が走って、今まで感じたことのない刺激に射精した。低く潜められた声でそれを咎められて、また、躯が反応した。
ぞくぞくと、あの時の性感が腰を震えさせる。
顔が火照る。正座した膝が、もぞもぞと落ち着かない。
「一史?」
あの時と同じ声が、違うトーンで名前を呼ぶ。
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