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 風呂から上がってくると、晴人は布団を敷き直して寝ていた。長風呂でもなかったのにシンクの中の食器類は綺麗に洗って乾かされていた。  窓から、月が射している。そちらに顔を向けて、背中が、肩が、微かに動いていた。  「晴人さん、」  呼び掛けた名前に答えはない。黒いアンダーシャツの縁が、月明かりに浮かび上がって見える。  晴人が、自分を好きだとして、自分は、どうだろうか。  乱暴されたのに、離れられずにいるのは答えなんだろうか。  もしも、  もしも、晴人の気持ちに応えたとして、なにか変わってしまうのだろうか。セックスをしても、追い出されたり、逆に、晴人が消息を絶ったりといったことはなかった。  相変わらず、食事を作ってくれて、時間が合えば一緒に食って、合わなければ、それぞれに済ませたり、取り置いてくれたり。その代わり、一史が料理以外の家事を行う。そんな当たり障りのない日々。  「晴人さん、」  もう一度声をかけて、反応がないのを確かめる。  セックスをしても、変わらなかった関係は、もしも一史から触れたら、変わるのだろうか。好きだとも、付き合ってほしいとも言われてない。ただ、「離れるな」といわれた言葉が脳にこびり付いている。  離れることなど、できるだろうか。  彼のいない世界を、もう一度……、  フラッシュバックのように何もないデスクを思い出した。あのときの、胸の締め付けられる痛みを思い出した。  灰皿が一杯になったのも、何枚ものゲラ稿の上に置かれた赤ペンも、役割を果たしているのかも判らないようなカレンダーも、資料も、ノートパソコンも、風俗店の名刺も、飲みかけたままコーヒーのこびりついたカップも。  全部なくなっていた。  締め付けられた胸が、抉られたように痛んで、痛んだ後に穴が開いた。そこを吹き抜ける風を、もう一度味わうのだろうか。  空っぽのこの部屋を、受け入れるのだろうか。  腹の底がぶると震えた。その震えが、脳髄に染み渡るまでの過程で、涙腺が緩んだ。  「晴人さん、」  声が震えた。  好きとか嫌いとかでいったら、好きなんだ。  それがセックスしたいとか、そういうのかどうかわからない。わからないけど、好きなんだ。ずっと、無くしたくないんだ。だから、俺は空っぽのデスクに耐えられなくなったし、この部屋の扉を開けたんだ。  「晴人さん、」  俺は、俺は、多分、  あなたが好きです。  言いたかった言葉が、喉元で張り付いてかすれた。小さな音が、唇から漏れた。  口に出してはいけないような気がした。  口に出して、もし届いてしまって、拒絶されたら、あの空虚以上のなにか恐ろしいものが、自分を襲うような気がした。無防備に曝してしまえるほど、自分が強くないことに気がつく。無防備に曝してしまえるほど、この想いが弱いものではないことに気がつく。  のそのそと晴人の背中に入り込む。  一組しかない布団は、一史が買っていないからだ。  いつでも出ていけるように。  そうしてきたはずなのに、今は出ていかないために、晴人の背中に入り込む。  肩が、ぴくと戦慄いたように思えた。  戦慄いたと思えた背中は、一史の掌を乗せたままで、深く息を吐く。筋肉の下で、確かに鼓動する音が掌を伝わる。月の明かりに照らされて、つやつやと光る繊維が、明瞭な影をその体に与える。  好きです。  額をその肩胛骨にくっつける。体温が額を温もらせる。  じんじんと熱くなるのは胸や額だけじゃない。この背中に腕を回した事実が、この腕に繋がる、大きな手が、その指が、自分の中心を握り、扱き、奥まで触れたことが、下半身に血を巡らせる。  どうか、起きませんように。  温かな背中に額を押し付けたままで、そっとシャツを捲りあげる。心臓が口から飛び出そうなくらい、高鳴ってる。  片手で胸まで露出させる。他方の手指で唇に触れる。  『一史。』  あの声が、耳の奥で反響する。  「ン、ふ……」  明日から、出張。  行くなとも、抱き締めるともしてくれなかった。  「ン、」  唇を捲り、噛み合わせた歯を指で開く。

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