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躾て、しまいたい。
デスクといっても一史の勤める出版社じゃ取材出張なんて当たり前だ。デスク不在の間は編集長がその責を負う。
その仕組みを作ったのは、他の誰でもない、晴人自身だ。若手ばかりの新しい部署でフットワークの軽さと人脈の広さだけが売りみたいな自分が、デスクに就いたらどうなるかなんてわかりきっていた。取材のイロハも判らないような新人を連れ歩いて自分でネタ拾いに行くのが当たり前だった。
信憑性のある記事を書くためにはネタがすべて。回りくどい言い回しは読み手の需要に答えられない。読者が求めるのは刺激的な“事実”。いくつもの小さな事実を組み合わせて作り上げた虚構に似た“事実”。そのためには寸暇を惜しんで歩き回る。
そういう教示をしてきたのは。自分だ。自分なのだが。
「ただいま」
小さく呟いた声に答えはない。
3日目の不在。
長い方ではない。
取材出張なら1週間、2週間の出張もざらだ。張り付きなら幾日か着替えを取りに帰る程度の帰宅を何度か挟んで一月なども平気で在る。
自分も、そうだった。
筈なのに。
暮れ泥んだ空を、薄いレースが暈していた。玄関からの風にそのカーテンが膨らむ。
おかえりなさい。
耳に馴染んでしまった声が、幻聴のように聞こえた気がした。
ひとつ溜め息をついて頭を掻く。短く切った髪の背後で玄関戸が閉じる。
今度こそ、帰ってこないかもしれない。
胸をついて浮かんだ予測に、背が伸びた。
その背を伸ばさせたのは、他でもない悪寒だった。
あんなことをしてしまったあとで、どう接していいかわからずにいた。
一史が眠る間に後始末をして、早く出る必要もないのに職場に出掛けて、一心不乱に仕事を済ませて、そのくせ、誰よりも遅く職場を出て、それでも、空っぽのこの部屋を想像したら臓腑が潰れそうで怖くて、近所の公園で時間を潰そうと意を決したとき、
この窓から光が漏れていた。
閉じたカーテンの隙間から、照明の明 を見たとき、心臓が必要以上に跳ね上がって歩調が早くなった。
「おかえりなさい」
今しがたまで寝ていたような顔で。いつもと変わらないスウェットで、机の上には、近所のスーパーの惣菜。
「ただい、ま」
そう応えて安堵より先に動揺が来た。何故、が頭の中で回った。あんなことをしたのに。あんなことをされたのに。どうしてここにいるのだろう。出ていかれて当然のことをしたのに。
伽藍堂 になった部屋を覚悟していた筈なのに。
「どうしたんですか」
泣き腫らした赤い瞼が暴行の事実を突きつける。起こった事実を鮮明に思い出させる。よれたスウェットの襟ぐりから、酷い傷が覗いていた。歯形なんて生温いものじゃない。間違いようのない、傷口。
「早く食わないと、冷めますよ」
声に促されて、土間から框に足を掛ける。
ひくと、スウェットの肩が跳ねた。
ーーーああ、
その動きで気がついたのだ。
ーーーそうか、
そのまま真っ直ぐに座卓に向かい、ジャージを脱いだ。
ーーー忘れようとしているのか。
すべて、無かったことに。
それならば、今までの関係とは変わらずにいられる。それは、晴人のもっとも望む結末ではないか。
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