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 水が満たすみたいに、息苦しい。この匂いが消えてしまう前に、自分も消えてしまいたい。  憂鬱な思考が、眉間の辺りを痛くする。  朧な意識で、玄関扉が開く音を聴いた気がした。  自分に都合のいい、幻。  「ブヨージンですよ」  一史の声が聞こえる。そう言えば、鍵をかけ忘れていた。  ーーーあとでちゃんと、施錠しなきゃな。  それとも、そのままにして空き巣狙いの不届き者に居直り強盗でもして殺してもらおうか。通りすがりの指名手配犯が家宅侵入なんて、自分に都合のいいことは頭の中でしか、起こらないか。  「寝てますか」  あまりにもリアルな声に顔を横に向けて重い瞼を開いた。うつ伏した顔を覗き込まれて目が合う。  「一史……」  「え、わ、なん、どうしたんですか」  必要以上に動揺した幻想が晴人を見ていた。薄汚れたシャツが、目元を擦る。汗臭いが、どうしようもなく愛おしい一史の匂いだった。  「う、あ。」  幻か。  気でも違えそうな恋慕に幻が一瞬だけ実態を伴ったのかと思った。思ったら、逃げられないように捕まえなくてはと体が動いた。  「晴人、さん」  心臓の鼓動が、襲い掛かってくる。責めるようにその存在を知らしめるように。  「ちょ、俺今臭いですよ」  「……ほん、」  「ほんとに臭いでしょ」  「いや、そうじゃ、なくて」  言わなきゃならない言葉や、伝えたい声が肺の中の水から浮き上がってくる。浮き上がってくるのに掬い上げようとした端から新しい物が浮かんでくるから、どうにも手に余る。  「本物だ……」  「あ、はい。」  本物ですよー、と背を撫でる。その掌が生きた熱を教える。  生身の、体温を。  それは違うことのない確かな体温と、匂い。  鼻腔が満たされ、腕が満たされ、脳が安堵と、それとは対極にあるような生々しいモノを感じて反射を体に齎す。全身の毛穴が引き締まり、産毛まで立ち上がるような震えが体を突き抜ける。  「うわっ!」  突き抜けた勢いのままに一史の体を突き飛ばした。大仰に尻餅突いた体がひっくり返りそうになって、堪える。  「なにするんですか」  強かに打ち付けた尻を擦って一史が文句を投げてくる。当たり前の反応にまた、心臓が脈打つ。距離を取ったはずなのに、匂いが、感触が、まだ残ってる。  温かくて、湿った……。  「……近付くな」  吐き出した言葉の意味が判らないというように一史は口を間抜けに空いたまま此方をみていた。向かいのマンションの灯りが、目の中に輝いていた。  「大体、何で……」  濁った言葉が喉に絡みつく。  艶めいた目で見つめられると、それだけで堪らなくなる。伝えなくては伝わらない言葉が胸の奥で渦巻いて、降り積もってくる。降り積もってくるのに唇にのせた言葉は上手くない。  ―――ああ、違う。そんなことじゃない。もっと、ちゃんと、  性的興奮を、体に覚える。煩わしい性感が考えることを邪魔する。  ―――ちゃんと、  何を言えばいいのかわからないのに一史の目は真っ直ぐで逃げ場を奪う。  艶やかな白目。鮮やかな、花みたいな光彩が見えるような目だった。  無理矢理振り払って、背を向ける。  情けなさが込み上げる。  「晴人さん」  「俺は、」  息を飲み込んで窓の外を見た。灯りはちらほらと灯り、晴人は俯く。  「また、お前を犯しそうだ」  背後で、空気の止まる気配がした。  軽蔑される。見捨てられる。今度こそ、きっと。  好きなのに、大事にしたいのに、体は犯すための反応を示す。下腹部が重怠い。頭の中で淫らにうねる体と涙を何度も再生する。  「近付くな」  窓ガラスに映った一史を制止する。  「近付かないでくれ」  この関係を捨てないために。無理強いをしないために。  「勃起(たっ)てるから、今。お前を犯したくて仕方ないから」  だから今は背を向けて平静を取り戻す時間がほしい。

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