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 静寂の中で自分の心音だけ、やけに煩い。  一史の表情は、窓ガラスに上手く映らなくて、それが安心するのか、それとも不安を駆り立てるのかよくわからなかった。  「あんな」  表情のない口許が動いたような気がした。  それが幻なのか、現実なのかわからない。  「酷いこと、しておいて」  小さく呟く声が胸に刺さる。幻聴だと信じたい声が耳裏の当たりで聞こえる。鼓膜を擽って脳を引っ掻いて恥ずかしい事実を突きつけてくる。  「……だったら、何で帰ってきた?」  責める口調になって、肩が強張る。  「そもそも、ここは俺の部屋で、お前に来てくれなんて頼んだこともなくて」  もしもう一度戻ってくるなら、  この腕で抱き締めたいと、髪を撫でて 笑わせてやりたいと。  そう思っていたはずなのに。  「要らねぇっつても俺の分の飯まで買ってくるし、灰皿は片すし、掃除はするし洗濯はするし……」  上層部うえとトラブって売り言葉に買い言葉で仕事辞めて腐ってた俺のケツを拭って、自分だってキツいくせに会社残って、俺の残滓だってだけで煙たがれたのを実力で黙らせて。  俺はお前という後輩が好きで、嫌いだった。物覚えが早くて警戒心を抱かせずに人の懐に突っ込んでいけるお前が大好きで大嫌いだった。  絶対に、競い合う男になると思っていた。羨望と嫉妬の対象だった。同時にそれが楽しみだった。いずれそうなることが楽しみだったのに。  「お前が転がり込んできてから、めちゃくちゃだ。」   相変わらず、一史の顔は写らない。暗い、のっぺりとした空と、マンションの灯りが見えるだけだ。その中に浮いた輪郭が、晴人を見ていた。  「お前の理想でいたかったのに。理想のままで仕事を辞めたのに。転がり込んで、甲斐甲斐しく世話焼きやがって、俺の作った飯、旨そうに食いやがって、なんの屈託もなく、笑いやがって」  こんな回りくどい言葉は好きじゃない。好きじゃないのに、言葉は上手く直線を描かない。真っ直ぐに走ろうとしない。  自分は、こんなに言葉に不器用だったか?  舌がもつれて上手く話せない。  眩暈して顔を覆った。  「……お陰で、お前を離せなくなってしまった。」  視界を覆った瞬間にやっと真っ直ぐに言葉を引けた。それは泣きたくなるほどに切実な願いだった。  掌でできた闇の中に身を潜める。口にした本心を何度も頭の中で繰り返した。  離れられない。離れたくない。  あんなことをしておいて、今なお願う。それはなんて、  「自分勝手ですね」  切り捨てるように吐き出された言葉は的を射ていてなんの申し開きもできない。  「人を無理矢理手込めにしておいて、我が儘ぶちまけてその原因はお前だ、と」  ゆっくりと噛み締める言葉にまた心音が上がる。顔は羞恥に熱くなるのに心臓は激しく鼓動しながら冷たい。顔を上げるのも怖くて手中の闇に息を殺す。窓ガラスに映った一史ののっぺりした顔を想像して体がいっそう冷える。  「ねぇ、こっち向いてくださいよ」  ばさ、と、布の翻る音がする。視覚を遮断したせいか、冷たい静寂のせいか、聴覚が鋭敏になる。  「こっち向いてください」  嫌だ。  振り返って侮蔑と汚物を見る目を向けられたら、その顔で2度と触れるなと、2度と顔を見たくないと、はっきり拒絶されたら、俺は、生きていけない。  嫌だ。  顔を覆ったまま頭を振る。その頭を冷たくてでかい掌が包む。  「いいから」  「いっ」  両耳を覆われて、声がぼやける。強い力が首を捻った。その痛みに思わず振り返り、顔をあげた。  目の前に一史の体が浮かんで見えた。  「こっち、見てくださいよ」  上擦った声が興奮によるものなのが、一目で判った。堪えるように無理矢理作った口許の笑みが、何を噛み殺そうとしているのか、一目瞭然だった。  「かず、」  「晴人さんが犯したいのはこの身体でしょう?」  仄暗い部屋にあのときと同じ、別段白くもない体が、白く発光して浮かび上がる。平坦な胸、米粒ほどの乳首は既に尖り、膨らんでいる。  「俺も、勃起(たっ)てるの、判りますよね」  臍まで反り返った性器が先端を煌めかせてる。  「ヤりたいって、思ってるんでしょう?」  恍惚めいた笑みに、誘惑される。

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