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 出掛ける前日。  煮魚を食べながらなんてことはないように一史の出張を受け入れた晴人。出張に出る自分をおいて先に出勤した晴人。そんな人が、帰宅したら暗い部屋で布団に顔を押し付けていた。初めは寝ているのかと思った。疲弊しきって玄関先で寝入ってしまうこともお互いにざらだったから、布団まで行き着いただけましなのかと思いながらその肩に薄いタオルケットを掛けようとしたときだった。  「……一史」  目尻から、蟀谷へ走る水の跡。濡れた睫毛。それが瞬いて、はっきり結ばないぼんやりとした目線のままでこちらを見た後。息を飲んで。  抱き寄せられた。  近付いた頬から潮の匂いがした。  「本物だ」  腹の底から震えた。その声が、安堵に微か震えていたことが、胸を温かくさせた。独りで何でもできる無頼坊のような人。飄々と、飄々としている人。その印象が、全部音を立てて崩れる。触れたかった背中が、目の前で震える。今なら、ごく自然に、その背中に触れることができる。異常な位喉が乾いて、喉が乾いて唾液を飲んだ。必要以上の音に、晴人が不審に思わなかったか怖くなる。  触りたい。  この衝動は間違いなく恋だ。好きだから、触りたい。普段の何者にも頼らない依存しない姿が、自分の不在だけでこんな風に弱ってしまう。普段の晴人なら絶対に見せない姿を、どうしようもなく愛おしいと思う。  愛おしくて、愛おしくて、  可哀想だ。  自分の手が、震えていることを気取られないようにその背中に触れた。一瞬強ばった背中が、深い息と共に弛緩した。はっきりとした安堵だった。無駄な脂肪の無い皮膚の下に硬い筋肉が芯のように張っている。その背中を鼓動が叩いている。掌を伝って感じる。  「本物ですよー」  答えながら逞しいのに頼りない背中を擦る。こんな姿を、俺以外に見せることはないのだろう。俺にだって初めて見せる姿だ。  これで絆されないはずがない。  いつも真っ直ぐ伸ばされた背筋が一史を包むように丸められて、大きく息を吸い込んで、吐き出した。

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