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 冷蔵庫の開閉音。牛肉、使ってくれたんだ、と小さく呟く声。まだ、使ってはいないのだけれど。ペタペタと歩く音に、たぽんと、何かの水音が混じる。  「水族館、ですか」  炭酸水のボトルを手にした晴人は相変わらずの上裸で一史は視線を泳がせた。  うん、と頷いて、晴人はそのまま畳の上に腰を落ち着ける。伸びた項にも、真新しい赤い痕が残っている。それは、いつつけたものだろう。夢中で噛みついた記憶だけはある。だが、どこに噛みついたのか、覚えていない。視線を落として、自分の躯にも無数の痕があることに気づく。鎖骨に、腹に、胸に。それはもはや痕と言うよりは噛みつかれた傷に近く、意識するとじんじんと痛んだ。  「職場で、貰ったんだ」  優待券。  口をつけたボトルの中でたぱん、と炭酸水が鳴く。猫背に撓んだ腹の皮が、どんなに締まった躯でも皮膚は撓むことを教える。意図的ではないにしても目を惹き付けて止まない晴人の躯から、無理矢理視線を剥がすために一史は立ち上がって、洗濯籠に手を伸ばした。  水族館。  水色の世界が好きだ。アーチ状になった水槽の下を潜るとき、まるで空と海が反転したようで、頭上を飛ぶマンタの流線型を見るのが好きで。まるでそうプログラムされた精密な機械のように球形を作って泳ぐ鰯の群れの煌めきを、眼裏に思い出せる。  でもその想い出はいつのものだろう。仰ぎ見た水の空は高かった。両手を、温かな手が引いていた。遠い、遠い記憶だ。甘やかで切ない、辛い、記憶だ。多分、辛いのだろう。  かしゃん、とピンチつきのハンガーが音を鳴らす。  「……好きです、」  多分。辛いけど、好きなのだ。  その思い出を、晴人は知らない。別に、言う必要もなければ気に掛けて貰う必要もない。ただ、そういえば今まで付き合った女の子とは行ったことがなかったような気がする。  「そう、か」  少し、目を大きくしてこちらを見たあとで、視線がそれる。そうして呟いた声に微かな喜色が見えた気がした。確かめるように晴人を見返ると、抱えた膝で、顔の下半分が隠されていた。必要以上にボトルを揺らし、その中の水を、柔らかな視線が眺める。ちゃぱちゃぱと、炭酸が揺れる。隠しきれずに覗いた口角が僅かに上がった。その角度が、愛おしい。  重荷にはなりたくない。  俄に、そんなことを思う。  しかし、その反面で、自分の過去もすべてひとまとめにして晴人の都合の言いようにして欲しいとも思う。  ーーーなんだろう、これは。  躯から躾けられて、心まで縛り付けられていく。  ーーーこういうのを、束縛と言うのか。  人に会うことを咎められるわけではない。行動を制限されるわけでもない。ましてや物理的に縛られたり、閉じ込められたりするわけでもない。でも、確かに今自分は、晴人から離れられなくなっている。  「好きです」  あの夜飲み込んだ言葉がすらりとほどけて声になる。あんなに激しいセックスをしていながら、お互い声に出したことのない言葉が、光の中で舞う。  晴人は、一史の方を向いて悪戯っぽく笑う。張り付きでよく見た顔だった。楽しくて仕方ないという笑い方だった。  「じゃあ、休み合わせていこーぜ」  一史の知っている中で誰よりも言葉に精通しているはずの男は、一史の言葉の真意も汲まず、ただ嬉しそうに笑って言った。

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