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甘やかし、たい。
歩行者天国を入ってすぐのビルは昼と夜が入れ替わろうとしていて、センター街は駅に向かう人と他の駅から来た若者とがすれ違う。翌日が休日だからだろう、学生の姿が多い気がして、心なしか落ち着かなくなった。水族館のある建物に入る頃には、もう日はビル群の狭間に埋没しようとしていて、夕闇の迫った歩道で、ラフな服装の晴人と一史は遊びに出る学生と、仕事帰りの社会人と、どちらに見えているのだろうと不意に思う。
「歩く歩道」
ビルの中に敷かれた動く歩道を見て、一史はポツリ呟く。 その声を左耳で拾って晴人は一史を振り返った。
「動く歩道だろう?」
歩く歩道ではあまりに普通すぎる。ただの歩道だ。一史は小さく目を見開いて、目元を朱に染める。その様が意図した間違いではなく、本当にただ純粋な間違いだったことを伝えてくる。
「いや、あの、俺、」
左手で口を覆いきょろきょろと視線が踊る。やり場に困ったらしい右手が開いたまま晴人の方に向けられ、意味もなく扇いでくる。
「いや、普段、あんま、乗らないから」
必要以上に動揺する姿が変に愛おしく思えてしまうのはなんなのだろう。はっきりと自覚した恋心の成せる技なのか判らないままに喉が鳴る。
「いいじゃねぇか、歩く歩道」
込み上げる笑いのままに笑って、人の少ない『歩く歩道』に歩を進める。一歩踏み出すとすいと通常の2歩分くらいのペースで移動した。
「ほら、歩く歩道。倍の早さで進める」
何気なく差し出した掌に一史の手が触れる。心臓がぎゅっと縮み上がって、息を吐き出したように思いきり血液を送り出した。
大したことじゃない。
手を引いた、それだけのこと。
安らぐ場所を求めて帰る人も、誰かと過ごす今夜に歩調を跳ねさせる人も、誰も皆自分のことに夢中で回りを見ていない。自然体のまま不自然に手を引いて動く歩道を渡りきる男の姿など、多分誰も訝しんで見たり、しない。
俯いた一史は晴人に先導される形で歩く。すいすい進んで、最後の一歩を踏み出したとき動かない地面に足が触れて行き詰まる。
「ふはっ」
俯いたまま、足元を見ていた一史の顔がほころぶ。面白味なんてなんにもないただの歩道がまるでアトラクションだ。
「歩く歩道」
確かめるみたいに笑って呟く。子どもみたいなその反応に胸の奥が疼く。歩を弛めた一史を、後ろから来たスーツ姿の男性が、迷惑そうに顔を歪めて追い抜いた。その顔さえも意味もなく愉快で、晴人も少し笑った。
「……最上階、だよな」
繋いだままの手をそっと引いて、その温かさに体ごと引き寄せたくなる。一史は笑みをやめて顔をあげる。顔をあげて、晴人を透かして遠くを見るような、そんな目をする。
「ああ、俺、ここの水族館、来たことないんですよね」
一史の声はすぐ傍そばでしている。それなのに水の中で話しているように不明瞭だ。くぐもっているわけではない。なんだか透明な声で、水と同じ屈折のせいで見えなくなってしまう、そんな声だった。正体の掴めないものになってしまう。
この腕を引いて、抱き寄せて存在を確かめたい。
人目も憚らずそんなことができるほど、無知ではない自分がもどかしい。『水族館』という言葉を告げたときも、同じ目をしていた。同じ、声をしていた。
なにか、思い入れがあるのか。
それに踏み込んでいっていいものか、判らなくなる。踏み込んで踏み荒らしてしまったら、自分はまた同じ過ちを繰り返していることになる。
今ここに一史がいることが、本来はあり得ないほどの僥倖であることを忘れてはいけない。その体を侵し、貪っておきながら、傍にいることを赦されている。それが、彼のどんな気まぐれであったとしても、赦されているうちは、傍にいられる。それ以上を求めたら、壊れてしまうかもしれないことを、忘れてはいけない。
「そうか、敷地は狭いけど、多分気に入ると思う」
自分を戒めて晴人は強く一史の手を引く。手を引いて、その体を自分の隣に並ばせると、そっと手を解いた。
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