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甘やか、されたい。
振り返った晴人の目にタクシーのヘッドライトが反射した。唇は堅く結ばれ、歩調が止まる。指先に引っ掻けたシャツの裾。それが張って、まるで女みたいだと、自分でも思う。
女だって、積極的になることはある。
自分が受け身の状態で、こんな風に強請ることは初めてだが。
晴人は唇を閉じたままで目を見張っていた。上手く意味が伝わらなかったのか。見張った目が苦しげに細まる。眉間に皺。なにかに、耐える表情。
「……そう、か」
その言葉が胸の奥で硬い音を立てる。なにかがひび割れたみたいな、痛んだみたいな、そんな音だった気がする。
「晴人さんは、帰りたいですか。」
明日は休みだし、折角のデートならば、デートの最後はそういうことをしても、いいと思う。
欲しいと思っては、いけないのだろうか。
なんだか判らない焦燥が今、胸を焼いているのだ。それは晴人に関わることじゃない。
一史の、極々、個人的な事情。帰ることを考えると、心臓がギシギシと軋む。目の前にあの水面が揺らめく。いいえも知れない恐怖が心臓を凍りつかせる。
水族館。深夜。車。環状線。帰路。
忘れるほど遠くにある映像がひとつひとつの単語に揺らめいて胸を苦しくさせる。
確りと、晴人を掴まえた。
「……まだ、帰りたくないんです。」
これなら、ちゃんと伝わるだろうか。
あの部屋に帰りたくないのではない。
今は、帰るのが怖い。
ただの、甘えか、我儘だ。
帰りたくない。この胸に募る暗い塊を快楽で塗りつぶして欲しい。
1台のタクシーが車道を通りすぎて車の流れがなくなる。周囲の誰も、ふたりを見ていないような気がした。
晴人の薄いが大きな手を握る。
駅の西口側に回ると、流石の晴人も一史の言葉の意味を正確に理解したようだった。
「一史」
「はい。」
大股で歩く一史の後ろを、手を引かれた晴人が半ばよろめくように付いてくる。
躊躇うのは当たり前だ。水族館やゲームセンター、昼間賑わう健全な東口に比べ、駅の西口は新宿、渋谷に続く歓楽街だけあってディープな雰囲気が漂う。
日付を跨いだ深夜であっても、それは変わらない。
むしろ、昼の顔と夜の顔を入れ替えた街は一層きらびやかに淫靡だった。
「どこに、」
「西口から5分のとこに同性OKのラブホがあるんです。」
「ラブホ……」
怯んだように一瞬力を弱めた手を一史は握り直す。
この手が、離れないように。
大切なものは案外簡単に失われてしまうことを、幼い頃に知った。だから、大切なものなんて、作らなかった。いつか失うくらいなら一時、躯と心を満たすだけの遊びを、いくつも覚えればよかった。それを繰り返していれば寂しさも辛さも感じないでいられる。それで上手く大人になれたから、それは、ずっと変わらないはずだ。
変わらない、はずだった。
―――大切なものなんて、作ろうと思って作るものじゃないんだな。
無くしたときのあの空虚は味わいたくないもんだ。でも、味わってしまった。知ってしまった。追いかけて縋り付くほどに。
「……嫌じゃ、ないのか。」
「何が」
擦れ違う人、こちらを全く見ない人。もし興味本意の目で見ていたって気にならない。
俺は、この人が好きだ。
過去との下らない符号の一致を恐れるくらいには好きだ。人目を憚らず手を引いてラブホにはいるくらいにはすきだ。自分のトラウマ引きずり出して根拠のない恐怖に怯えるくらい好きだ。
「俺は今夜、先輩と一緒にいたい」
今夜だけじゃない。この先もずっと。だから今夜、帰りたくない。
晴人には、訳が判らないだろう。でも話したら重たくなるだろう。だから、今は当たり前のデートの振りして当たり前みたいにセックスがしたい。
一史は知らず、同僚のときと同じ呼称で晴人を呼んでいた。
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