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 手早く体の水分を拭き取って部屋の中にはいる。  晴人は備え付けられたテレビでAVをジャミングするでもなく、文庫本を読んでいた。なんの本かは判らない。  備え付けのちゃちなバスローブは明らかに脱ぐためのものでしかなくて、それを着ている晴人がとても、不思議だった。部屋の中で本を読むとき、晴人はいつも部屋着代わりのジャージかアンダーシャツだ。  「お待たせしました」  同じベッドの上にどっかと腰を下ろして吐き捨てる。腰にタオルを巻いただけで乗り上げた瞬間に腿が露になった。もっと上手い誘惑の仕方があるかもしれない。でも、今さら判らない。そっと後ろから忍び寄って抱きついてキスをして、「おまちどおさま」とか言った方がよかったのかどうかも判らない。  「あぁ、」  晴人は文庫から目をあげて、本を閉じる。閉じて、チェスタの上に置くとその手のまま部屋の照明を落とした。心臓が、一瞬、跳び跳ねる。  晴人の手が、洗い立ての頬に、触れる。  そのまま、口付ける。そのかさついた唇の感触を反芻したとき、頬に触れた手はそのまま肩を押してベッドに一史の体を沈めた。  「おやすみ」  暗い照明の中で目を見開く。鼻を、晴人の匂いが漂う。あまい、甘い匂い。濡れ髪が鼻先をくすぐる。のし掛かる、晴人の重みが、ベッドに一史を縛り付ける。迫ってくる心臓の音が、一史の皮の薄い胸を叩く。  生きてる。  間違いようのない確かな心音。  それだけで訳もなく、目頭が熱くなった。  どこから入ってきているのか光の波紋が天井に揺れていた。  昔々もこうやって、誰かの心音に安堵した。誰でもいい、適当な顔とのセックスの後で疲れきって眠るのではない。ただ甘い温もりに包まれる夜があった気がした。  「……晴人さん」  「……」  寝息ではない吐息が聞こえるのに、晴人からの返事はない。首筋に埋まる顔が、押し付けるように強まる。  「晴人さん」  話すたびに喉が震える。それが響いて背中が震え、連動して胸が囁く。その音を晴人は聞いているようだった。  「……セックス、しないんですか」  「俺は寝たんだ」  いやいや、寝てないでしょうよ。なにその幼稚園児みたいな返しは。少し脱力して鼻からため息をつく。大袈裟に晴人の背中が波打つ。  「俺は、」  息を吐き出して何を言いたいのか考えた。過去の話をしたところで重たすぎるし何が変わるものでもない。むしろ変えられるものが、変えずに済むものがあるのなら。  「セックスしてもしなくても、晴人さんが居るならそれでいいです。」  両腕を投げ出して天井を仰いだまま呟いた。背中に回った晴人の腕が、端から狭い小範囲をさらにキツくする。きつくしておずおずと顔が上がる。  「あのとき、離れるなって言ってたでしょうよ。」  晴人の顔がにわかに上がる。光の波紋を反射して眼球が艶めいた。  「多分、俺も離れたくないですよ。」  「多分。」  「ええ、多分、」  晴人は行く先を失ったような不安定な顔で一史を見下ろす。別に、そんな顔をみたかった訳じゃない。  ただ、確定めいた言葉を避けていた。  離れたくないのは事実なのに、それをはっきり口にできない自分の弱さが、無意識に口から溢れた。

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