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流れていく味気ない景色に瞼が重くなる。サイドウィンドウの縁に頬杖を付いて頭を凭れると自ずから瞼が落ちてくる。
昨夜眠ったのは何時だったか。
盛りのついた十代 みたいに貪って、気が付いたときには抱き締めた腹の下で一史は意識があるのかないのか曖昧に唸っていた。最後の一滴まで振り絞って注ぎ込んでその体の上に落ちたとき、なんだか判らない、どちらのものとも知れない体液がベタベタした。そのままでいいと更に強く一史を抱き締めた。
消えていかない、確かな存在が愛おしかった。
微睡みの中でセックスに疲れきって眠る顔を見ていた。もっと強く抱き締めたい衝動と、食らい付きたい願望に駆られたが、結局、晴人は一史の髪を撫でてその頭を胸に抱いた。
今と同じように微睡みながら、少しちくちくする強い髪を撫でていた頃、薄明の日が窓を照らしていた気がする。昏い夜を明かした紫と赤と黄色っぽい白色。見ているうちに何故か視界が歪んできて、涙が滲んだんだと思った。
―――川崎だ。
細く狭くなった視界に工場群が見える。その錆び付いたセピアの金属棟が蒼く澄んだ空に溶け込むことなく聳えている。
夜景ならば、余りにも有名な場所だ。
―――見せてやりたい。
いや、そもそも出身が関東圏の一史は京浜の夜景などガキの頃から見慣れているのか。ガキの頃から関東 に住んでいたのか。実家とか、聞いたことがない。人事部でもなかった晴人が知っているのは高校時代の部活やら最終学歴やらなんだか中途半端なものばかりだ。
―――違う。
見せてやりたいんじゃない。
睫毛に閉ざされそうな視界で考える。
―――一緒にみたいのか。
京浜の夜景を。自分が綺麗だと思うものを。
知らせたいのだ。
自分が知らない相手の姿を知りたいと思うのと、同じくらいに。
目の前に、海が開けていた。まだ海水浴には早い時期に何人かのサーファーが波を待っている。
風は強くない。
海はサーファーを厭うように凪いでいる。凪いだままでふわと、風が頬を掠めた。
潮の匂いがする。汗の匂いに似ている。
「ここは、どこだ」
潮風に髪を嬲らせながら波を見ていた。良さそうな波だと思った刹那サーファーはパドリングを始め、波に向かって漕ぎ出した。
「鎌倉です」
「なぜ」
「しらすトースト食べたくなって。」
しらすトースト。
バターを塗ったトーストにしらすと海苔を乗せたシンプルなトースト。
何かの漫画で、有名になった。その時期に女性記者がグルメ欄にコラムを載せていた。鎌倉の、なんと言う店だったか。
「いや、お前、ロイホに行くっていってなかったか?」
「晴人さんの寝顔を見ていたらしらす食いたくなって。」
「しらすを彷彿とさせる寝顔ってなんだ。魚顔か。」
「どちらかと言えば犬顔ですね。しかも悪そうな犬。」
悪そうな犬など見たことがない。犬といえば忠実な、人間の友じゃないのか。
「俺の好きなもの、食ってほしくなったんです。」
風が、一史の髪を散らした。鳶が高く旋回しながら啼いている。
「俺、鎌倉出身なんですよ。」
まるで、思いを透視されたみたいだ。知りたいと願った想いが汲まれたみたいな。いや、知って欲しい願望が、一致したような。
「だから、海なのか。」
「海が、好きなんです。」
凪いだ海にサーファーが陸へ還ってくる。したる潮も気にしないでボードを持って。
「海が好きで、嫌いなんです、」
挑むような目付きに何故か無性に抱き締めたくなった。その為に動こうとした右腕を、一史の手が捕った。
ぎゅっと、きつく。
「行きましょ」
見上げてきたその顔はいつもと変わりない。変わりなく笑うから。
暗に踏み込みを禁じられた場所が晴人の胸をつかえさせる。
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