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知りたく、ない。
何故あんなことを言ってしまったのか。
思い出すだに、後悔の念が頭を占める。
鎌倉の街を散策して、横浜により、他愛ない会話を繋いで都内から県内へ抜けた時、もう陽は暮れていた。結局、前日の夕方から殆ど出掛けどおした二人は狭いアパートに転がり込んだらそのまま雑魚寝の体で深いような淡いような睡眠に落ちていった。
「いつか、ちゃんと話します。」
ーーーって、
そう言った。
でも、それはあまりに思わせ振りだ。そして、実際に伝えたら、一般的に『重い話』になるんじゃないだろうか。一方的にそんな話を背負わせる必要があるのだろうか。
シャワーの音がする。
窓の外はまだ薄暗い。スマホの画面を灯して時刻を確かめた。日曜のアパートはまだしんと静まっていて薄い壁の向こうからは物音のひとつもしない。今、この一角で目を覚まし、息をしているのは晴人と一史だけみたいだった。
しかも、晴人の方は一史が覚醒していることを知らない。
シャワーの音が途絶える。人の動く気配がする。
スマホの待機画面を落とし、硬く目を瞑ってじっと息を殺した。扉の開く音がする。
深く、息を吐く音がした。
それから、マグカップのぶつかる音。蛇口から、水の出る音。それをマグに注ぎ、飲む音。
目を閉じているせいだろう。聴覚からの情報が具 になり晴人の行動が手に取るように感じられる。
背中に、シャワーの湯で温もった晴人の体温を感じた。裸の背中、腰の辺りに湿気と温度がじわじわと伝わってくる。しゃこしゃこと、ブラシが歯を擦る音も聴こえてくる。朝のテレビ番組が、一瞬通常のボリュームで流れ、最小に絞られた。歯を磨く音に掻き消されそうになりながら、女性アナウンサーの挨拶が聴こえていた。今日は全国的に晴天らしい。どこかの地方では何かの祭りが開催され、どこかの路上では引たくりに遭った女性が転倒したのを男子高校生が助け、更に引たくり犯を逮捕したとかで表彰されたらしい。
目を閉じたままの世界はゆっくりと動いていて、歯を磨くしゃこしゃこが止むと、掌が頭を包んだ。そして、乱暴だが優しく髪をかき混ぜて立ち上がる。
髪の隙間に高い温度が残っていた。
シンクで口を濯ぐ音を聞きながらゆっくりと目蓋を開いた。目の前に自分の手が横たわっていた。その指先を眺める。確かに神経が繋がっているはずなのに、中指を動かそうとして動くのはなんだかとても不思議な気がした。その手で、さっき晴人が撫でた頭に触れる。
「起こしたか」
口にブラシを突っ込んだままの声がくぐもっていて聞き取りにくい。
「いえ。」
もとより起きていたのだから、起こされたわけではない。自分の頭を撫でてみる。さっきのように、地肌の、毛穴まで温もるようなこそばゆい心地よさはない。
「今、」
「何でもない。」
「いや、でも今」
「何でもない。」
やや強い語調はただの照れ隠しだ。
「そうですか。」
そうまでして隠したいものなのかとも思うがこちらも、何がなんでも認めさせねば気がすまないわけでもない。
ただ、
体を起こし、自分の手で頭を撫でてみる。やっぱり、違う。
「……頭、撫でられるって、気持ちいいんですね。」
「え?」
布団に座り込んだまま、撫でられた場所に触れていた。男が頭を撫でられるなんて事態は殆どない。女子と付き合っていたって年上の母性本能溢れ返ってるみたいな人でない限り男の頭を撫でようなんてしない。そもそも、男としてのプライドが邪魔をしてしまう。
そういうのは、感じなかったな。
バカにされたとか、下に見られたとか、そう言った気はしない。ただ、頭骨をすっぽり包むような大きな手の形にじわじわと温かさが広がっていく感じだ。
「なんか、言ったか?」
目の前にしゃがみこんだ晴人はいつものアンダーシャツにジャージを着ている。この格好で仕事に行くのだから、晴人の職業は不明だ。
「……もう一度、撫でてください。」
「は」
自分の手をどけてスペースを開ける。かちりとぶつかり合った目は白目の綺麗な三白眼。やや見開いたせいで白の部分が目立っている。
「もう一度、撫でて欲しいんです。頭。」
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