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 音をたてて、扉が閉じる。腕に預けられた小さな命をどうしたらいいかわからずに閉められた扉の前で呆けた。  「ちょ、」  片腕で乳児を抱え、扉を開く。アパートの通路に黒いジャージの影はなく、エレベータの昇降音だけが聞こえていた。抱えていた相手の匂いが変わったことに気がついたのか見る間に赤ん坊の眉間に皺が寄りアパート中に響くような泣き声が弾けた。  これは、どうしたらいいのか。  兎に角、今はもう遠い記憶になったいくつかの経験を頭に呼び起こす。首は座っている。確か、あの黒ジャージの抱っこひもは赤ん坊の体が縦になるような仕様だった。だとしたら。  「よい、しょ」  壊れ物を扱うようにしてそっと小さな体を縦にして自分の胸にもたせかける。右肩に赤ん坊の顎が乗るようにして臀部を掌でやや強めにぽんぽんと叩く。一分間に大体、60回くらいのテンポ。響いていた声は徐々にほあほあと曖昧な息遣いに代わり、指をしゃぶるちゅっちゅっちゅっちゅという音が聞こえてきた。柔らかいお腹に触れると膨れていて、空腹が原因出はなさそうだ。  そうなると他の原因として考えられるのはあれだ。見たくはないけど、あれだ。  頭の中で一番近いドラッグストアを検索する。幸い駅近なために24時間営業だったはずだ。しかし、休日とはいえ駅前まで乳飲み子を抱えていくのか。自分が。  「車は、無理だし。」  耳元でちゅっちゅっちゅっちゅと音が鳴る。温かい塊は腕の中でやや熱いくらいだ。  「仕方ないかなあ」  自分が寝ていた布団にそっと寝かすと赤ん坊は自分の袖ごと親指をしゃぶっていた。  起きないうちに脱ぎ散らかしたままのジンズとシャツを身に付ける。尻のポケットに財布。右ポケットにケータイ。再び赤ん坊を抱えて土間でサンダルを突っ掛けた。

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