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「はい」
出ながら、電話を掛けるという方法もあったんだなと思う。確かに電話さえしてしまえばこの赤ん坊の正体も、黒ジャージの正体もすんなりわかったはずだ。
『一史か。』
「はい。」
自分でかけているはずなのに晴人はいつも必ず確認する。俺の携帯に俺以外が出ることを恐れるみたいに。
『今どこにいる?』
その声は明らかに焦っているけれど一史の方も一史の方であせる事案が起こった。左肩で赤ん坊がもぞもぞと動いたからだ。片腕で支えているこの状況は不安定で、後ろ向きにころりと転がられたら落下して頭部を強かに打ち付けてしまう。右肩にケータイを挟むと晴人の声は聞き取り難くなった。
「駅近のマツキヨから帰るとこですけど」
『その足で五中前のコンビニに来てほしい。』
「いや、無理ですよ。赤ちゃん居るし」
その赤ん坊はほあほあと泣き出す寸前のむずがりをはじめて多分オムツのキャパシティが越えているのだろうと推測できた。前腕に吸収材の水分を含んでふやけた感触が伝わってくる。
「オムツ、限界だし。」
『……判った。じゃあ、来られるようになったら五中に来てくれ。』
自分を落ち着かせるためだろうため息の後で晴人は代案を出す。小さく体を縦に揺さぶると赤ん坊のほあほあは治まり、代わりにちゅっちゅっちゅっちゅという音が聞こえてきた。
『すまないな。』
「いえ。じゃ、一旦切りますよ。」
赤ん坊の様子が伝わったのか、殊勝染みて謝った晴人の声に胸がざわめいた気がした。晴人にたいして自分の感情に鈍いと思っていたが、一史も人を言えた義理ではなかったらしい。
バランスを取り直してケータイを外し、通話を切った。
「あ。」
その液晶画面が待機になってからあの黒ジャージと赤ん坊の正体を、晴人との繋がりを聞かなかったことに気づいた。
晴人が、責任をとらなくてはならない理由。
ひとつ。安直に、赤ん坊が晴人の子どもである説。首すわりの状態から生後5ヶ月くらい。厳密な計算ではないが、そこから更に妊婦の妊娠期を遡ると1年以上前に晴人と関係にあった女性。
紙オムツのテープを外し、その頃の晴人を思った。今は大分建て直したが、仕事を辞め、消息不明となり、さんざ探し回って見つけた晴人は目も当てられなかった。この人から文筆を奪うと言うことがどんなものか、思い知らされた。生ける屍。屍の方がまだましかと思わせるような無精。食べることにも身なりにも頓着せず、髪は伸び放題、頬は痩けて充血した目玉がぎゅりぎゅりと動いていた。
「男の子か。」
案の定キャパオーバーを迎えていたオムツを剥がすと赤ん坊は解放感からか短くむっちりした手足をぱたぱたと動かした。自分で自分の足を掴んで曲げ伸ばす。
「もうちょっと恥じらいなよ」
赤ん坊は返事もせず、上機嫌で足を曲げ伸ばしている。手早くオムツを付け替えてさっきの服を着せる。アンモニア臭をただよわせる汚物はビニル袋に突っ込んで口を縛った。
去年の晴人といえば、その廃人同然の状態からどうにか脱し、幾つかの職で食いつないでいた時期だ。俄に外出が増えたと思ったら、自分で買い物もし、一史にも食事を作るようになった時期。深夜の外出が殆んどだったから、主だった仕事の分類は判る。判るが。
ーーー晴人さんの子ども、は、ない。
そう思いたいからと言うわけではない。確信めいたもの。一史の頭の中に残る女性の影がそれを後押しする。
ふたつ。晴人が何か悪い組織に関係していて、あの黒ジャージと共謀、ないし、協働して乳児を誘拐した。その理由は判らない。しかし、土日、平日でもジャージ姿で出勤することが多ければ カタギの仕事とは、ちょっと思えない。その上、私服が勤務服のアパレルやショップ店員が晴人に勤まるとも思えないのだ。
冗談のつもりで立てた妄想がいやにぴたりとはまって面白くなってしまった。
「大変だね、君も」
スッキリしたらしい赤ん坊に話しかけると彼は興味もなさそうに服の襟をしゃぶっていた。
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