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教え、たい。

 昇降口から校舎内に入ると、一史は必要以上にキョロキョロと周囲を見回して落ち着かなかった。  確かに、子持ちでもない、関係者でもない成人にとって学校と言う空間はそれだけで非日常の印象がある。来賓用のスリッパを足元に出してやると一史は小さく頭を下げてそれに足を突っ込んだ。  「勝手に入って、いいんですか」  おずおずと、普段のあっけらかんとした天真爛漫な様子が(なり)を潜めてまるで借りてきた猫のようだ。そう思いながら一史の顔を見ると伸びた前髪から覗いたやや吊り気味の目の形も相まって一層、毛足の長い黒猫が間違って入ってしまった他人の家の出口が判らずにいるような、変な想像が頭の中に展開された。  「まあ、職員同伴だし」  込み上げた笑いを噛み殺して背中を向ける。  「職員……」  釈然としないといった反応で一史が小首を傾いでいるのが空気で判る。自分の下駄箱から上履きを出し、床に落とす。パタンと靴底の音が響いてマナトが全身でびくと跳ねたのが判った。  「あ。」  一史の声に寝た子を起こしたかと慌てて振り返ると、一史がぐずりかけたマナトの尻をぽんぽんと、こちらが少し引くくらいの強さで叩いていた。それは逆に泣き出すのではないかと思っていたが、予想に反してマナトはくったりと一史の肩に凭れて眠った。その様子を見る一史の細められた目と、伏せられた瞼が、なぜか中学生くらいの少年を思い起こさせる。  「……随分、慣れてるな」  「え。」  弾かれたようにこちらを見上げた一史はいつもの20代の顔で不思議そうに晴人を見ていた。  「いや、子どものあやし方が」  手慣れたものだと思った。それはこちらが、少し不安になるほどに。  ーーーいや、隠し子がいる、とは思わないが。  そう言い聞かせながら、少し落ち着かないでいることは確かだった。何分、一史について知らないことは、知っていること以上に多いような気がしてる。  「ああ、」  一史はよいしょと声をかけてマナトの体を抱え直し、言葉を選ぶように廊下の古い天井を見上げた。  「施設では、小さい子の面倒を見るのは年長者の役目でしたからね」  さらりと語られた過去はあまりにも予想外で一瞬息をすることさえ忘れていた。  自分の発言を判っていないのか、一史は物珍しいものを見るように校舎内を見回した。昇降口に並んだ下駄箱の間を通り、突き当たりを左に折れる。保健室とかかれたプレートの下、扉を開く。  「あら、お帰りなさい」  机に向かって書き物をしていた人物が、入室してきた晴人たちに声を掛ける。白衣姿に柔らかな笑顔。ふっくらした体つきと、笑った顔に表れるシワが、安心感を与える。  保健室の先生と言うのはこう言う人でないと務まらないのだろう。間違っても自分のような声も態度もでかい、横柄な人間にだけは務まろうはずがない。  彼女はよいしょと呟きながらデスクから腰をあげる。そのままゆったりとした歩調でカーテンの引かれたベッドへと向かい、勢いよく開いた。  「マサキくん!周防先生来たわよ!」  「周防、先生……」  ベッドに寝ている金髪ではなく、一史がしみじみと呟いて、そう言えば転職してからの職を伝えていなかったような気がした。別段、自宅で仕事について話をするわけでもなし、取り立てて気にも留めていなかったのが事実だった。  「先生、ですか。」  「ん。一応。」  「一応。」  ふうん。と、興味なさげに鼻から息を吐いて、また、マナトの尻を叩く。その割りにはそわそわと視線が泳ぐ。何か言いたいことがあれば、言えばいいものを。  「……似合いませんね」  「俺もそう思う。」  漸く吐き出された言葉に何の(てら)いもなく応えるとまあるい目がぱっとこちらを見た。それにニヤリと笑い返し、マサキの寝ているベッドに歩み寄る。  「起きろ」  低い地響きに似た声は、先生と言うよりは極道だ。我がことながらそう思う。  「起きろ、マサキ」  そもそも、保健室のセンセイみたいな優しさを求められている訳じゃない。求められても応えられない。  だから、晴人はマサキの背中を強めの平手で叩いた。

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