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 んーともぐーともつかない謎の音を発してマサキは身を捩る。きれいに脱色された金髪はよく見ると根本のほうが黒くなり始めていた。先刻注意したにも拘らず、身に付けているのは学校指定のジャージではなく、黒いスポーツメーカーのジャージ。しかもそのサイズはずいぶん大きく、裾やらウエストやらが随分余って見えた。  今なら、とも思って養護教諭に視線を走らせるが、彼女は小さな嘆息とともに首を微か振るだけだ。  ならば仕方ないと息を吐き、もう一度強く肩を叩いた。  「いってーな!バシバシバシバシ叩くんじゃねーよ!!」  「起きろ」  「起きただろーが!この暴力教師!」  起床早々これだけキャンキャンキャンキャンと吠えたてられるんだ、よっぽど血圧が高いに違いない。普段から塩分の高いジャンクフードばっかり食ってるんじゃないか。少し苛立ちながら次の句のために息を吸った瞬間、一史の指先がそれを遮った。  「起きちゃう」  呟いた声は小さく穏やかで、指先がすぐにマナトの背中に帰る。確かに、大声を出して起きるのは中学生だけではない。むしろ赤ん坊のほうがよほど音には敏感だろう。  「上着ぐらい脱いでベッドに入れ」  できるだけ声のトーンを下げて呟く。赤ん坊を起こさないためなら仕方ない。  「は。中坊脱がせてナニする気だよ。ヘンタイ」  いや、しねーよ。なんでお前になにかしなくちゃならないんだよ。  腹の内を噛み殺して養護教諭に視線を向ける。やっぱり彼女は小さく溜め息吐いて肩を竦めた。そのやり取りを見ていた一史の視線に気づいてそちらを向く。一史はスッと目をそらす。  「ナニもしねーよ、そんな趣味はない」  「あ、そうなんですか?」  呟かれた一史の言葉はあまりにも小さすぎて晴人にしか聞き取ることはできなかった。  なんでお前の機嫌が悪いんだ。  いや、不本意に赤ん坊を押し付けられたのだから不機嫌になるのも致し方ないのか。そのわりに険のある目線は晴人に向けられ、向けられたと思ってそちらを見ればすいと逸らされる。  これは難儀だ。  こう言うときの一史は明らかになにかに対して苛立っているものの、その真意を話そうとはしない。長期戦になると厄介なのは承知の半面、もうこうなってしまうとどう足掻いても長期戦になるのは免れない。  「……起きねーよ」  考え(あぐ)ねる間に身を起こしたマサキはベッドから降りて、少し下がったズボンをずり上げ、上着でウェストを覆った。小さく嘆息するとマサキはこちらを見る。丸い黒目勝ちの目はまだ幼さを宿している。  「マナト。これくらいの騒ぎじゃ起きねーよ。女のでかい喘ぎ声も、ぼっこぼこに人間殴る音にも慣れてるから」  晴人に向いていると思ったその目は、隣に立つ一史に向けられている。一史は、ウェーブがかった前髪の隙間から、どこか薄ぼんやりした、子どものような目でマサキを見ていた。マサキの背は一史の胸辺りまでしかない。一史はそれを見下ろしながら、冷静に、戸惑っている。マナトを抱いたままで、見上げるようにマサキを見下ろしていた。  「……帰るわ」  数秒間の睨めっこの後で先に目を逸らしたのはマサキだった。そして、それを引き留めたのは、  「待って」  一史だった。情けないことに、マサキの言葉の端々から詳細を聞かなくてはならない筈の晴人はどう声をかけていいのか判らないままに、声が喉に張り付いたように押し黙るよりなかった。  問い詰めて、事実の確認をする必要がある。マサキがどんなに頑なに隠そうとも、モノの例えだと逃げようとも事実を確認しなくてはならない。それが自分の、仕事に違いない。だと、言うのに。  「なに。」  挑み、食いつくような目を向けたままでマサキが身動ぐ。その腕を掴んだままの一史に抱かれたままで赤ん坊がうずうずとむずがった。  マサキの腕はあっけなく解放され、一史は赤ん坊をあやす。低い舌打ちで袖を払い、マサキが背を向ける。  「から、なんだよ!!」  何の策略もないままにその腕を再び掴んだのは俺の手だった。なにも考えてない。真っ白な頭で掴んでいた。

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