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 アパートの扉は薄い。  どれぐらい薄いかと言えば少しテレビの音量を間違えただけで筒抜けるくらいだ。  「ちっげーよ!背中は叩くんだよ!」  「下から上に擦ると出やすいんですぅ!」  「じゃあなんで、出ねーんだよ!貸せよ!」  「赤ちゃんをモノみたいにあつかう人には預けられませんんー!」  この一連のやり取りが部屋の外にいる晴人にも丸々聞こえてくる。壁も薄い。何しろ廃人だった自分が転がり込んだ住まいだ。まともな判断能力で購入しているはずがない。  セックスするときは一史に轡を噛ませよう。  冗談半ばに考えてその姿を想像する。何故か想像の中の一史は轡だけではなく、拘束具もセットになっていて、不自由な身をくねらせながら紅い目元で懇願する。腰を揺すり、卑猥に泣く性器を擦り付けてくる。あえかに震える唇がきゅっと轡を噛んで、瞼を閉じると一筋に頬に涙が垂れる。開かれたまま隠す術のない脚の間で全てが濡れて震えていた。  「がふぅ」  扉の向こうからの怪音に正気を取り戻す。目眩したような淫靡な白昼夢に詰めた息を吐き出した。全く無関係な人間がいる手前、そんな淫らな思考に走っている場合ではないはずなのに、気を抜くとすぐに一史の痴態が頭に浮かぶ。病気みたいなもんだ。  扉の向こうで笑う声がする。  まるで穏やかな家族みたいな音。  表札にかかれた部屋番を確認して、自室だと確証を得る。ドアノブは簡単に回って開いた扉の向こうに声を掛けた。  「ただいま」  「おかえりなさい」  まだ笑いの残る顔で一史がこちらを見る。その胸に抱かれたマナトは大きな目でこちらを見上げた。警戒心のない、まっさらな目だった。一史のむかいに立ったマサキが唇をもごつかせながら睨んでくる。さっきまで笑っていた声の中に、マサキの声も混じっていたような気がしたのだが。  「……オカエリ」  まるでオウムのような片言で、吐き出された言葉。吐き出して、逸らされた目。尖らせた唇。  「……ただいま」  その表情の全てが何を意味しているのか察せられてその小さな頭に掌をのせた。  硬くパサパサの髪。生乾きのそれに、違和感を覚えて見直す。チクチクと指に刺さる毛先まで人工的に黒く染められた髪。  「岩海苔みたいだな」  「なっ……!!」  あれだけ他の職員から言われても染め直さなかった髪が真っ黒になっている。多分、本当なら誉めてやったり、おだててやったりするべきなのだろう。多分。だが、うまい言葉が出てこない。  「悪くないじゃないか」  無理矢理なお世辞も、できて当たり前だと言われるようなことを誉めることも、晴人にはできない。でも、事実なら言うことはできる。哀しいくらいにダメージ喰らいまくった髪を撫でる。尖らせた唇がむず痒そうに蠢く。  マナトを抱えたままの一史が、じっとそれを見ていた。前髪を払いもせずにじっと、見上げてくる。それを気配で感じながら、今朝方のことを思い出していた。意固地に否定した行為を子ども相手にならできる。それは当たり前のように思えるのだが、視線が痛くて堪らない。  「さて、飯を作るぞ」  「もう2時ですけどね」  「悪かったよ、ちょっと遅くなった」  チクリと刺してくる声に軽妙な口調で返して台所に逃げる。冷蔵庫の中にはベーコンがすでにカットされていた。  「ベーコン、切っといてくれたのか」  「マサキがやってくれました。」  「へぇ、じゃあお前、ついでにレシピ教えてやるから手伝えよ。」  ジャージを脱いでアンダーシャツの袖をまくる。シンクで丁寧に手を洗い、ニンニクを2片出す。  いやがるかと思ったマサキは素直に台所に立つ。  「手、洗ったらそこにある鍋にオリーブオイルとベーコン入れてくれ」  無言のままで言われたことを行う従順さは学校では見られない姿だった。  ニンニクの2片を微塵切りにする。それだけで刺激的な匂いが手元に漂う。  「火は?」  「火はまだつけない」  マサキのが用意した鍋にニンニクをいれる。どうぞ、と促すとガス台の摘まみを捻って火がついた。

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