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タオルや着替えの用意をして居間に戻ると、1頭の獣がいた。
いや、実際には張り付いたアンダーシャツを乱雑に脱ぐ晴人がいた。
「間違っても女子生徒の前でそれはしない方がいいと思いますよ」
「したくないから今着替えてるんだろ」
晴人が左右に頭を振ると伸びた濡れ髪が弧を描いて振れた。ひっくり返った椀を直し、その辺にあったタオルで拭きながら、そのさまを見ていた。
僧帽筋やら広背筋やらがごつごつしていて、そんなのを見たら多分、恥ずかしがりながら見蕩れてしまう。自分ですらそうなのだから、多感期の女子が見たら嫌悪するか、惚れられるか、どちらかだろう。そして多分、後者の方が比率が高い。
「お前も、見たのか。」
振り返り、見据えてきた目が怒っている。そんな目を自分に向けられても一史にはどうにもしようがない。できてしまった傷痕をきれいさっぱり修復できる技術があるのなら自分だって治してやりたい。もし仮に、それが可能だったとしたって、記憶は消せない。父親だか母親だか、どちらにしても、自分を『守ってくれる』はずの存在から付けられた傷はもし視覚的に治癒したとしても見えない場所に残るのだ。好きな海 を厭う自分のように。他者と上手く繋がれず、安易な快楽に安定を求めた自分のように。
「……見てませんよ。」
喉に張り付いた言葉が掠れていた。嘘ではないのに、罪悪感があるのは、マサキを見てすぐに『虐待』の特徴を見たからだ。汚れた金髪。サイズの合わないジャージ。合わない視線。あえば挑むように睨み付けてくるのは、そらしてしまいそうな自分を押さえつけるためにそうなるのだ。骨に皮を張り付けたような肩。粗暴になりやすく逆上しやすいのは、スナック菓子やインスタントばかりを与えられ、栄養失調を起こしかけた人間に似ている。
「でも、判りました。」
「……そうか」
一史に向ける視線が不当だったことに気が付いたように晴人はシャツを被る。白い無地のシャツも、よく似合っていた。
「マナトは、傷ひとつないし、健康状態も悪くない。」
「そうか。」
言葉少なだが、晴人の目には哀しい優しさが灯っている。マナトの傍らに寄りその額を撫でる。
「姉ちゃんが、守ってくれていたんだもんな。」
マナトの頬を斜陽が照らしている。規則的に膨らんで萎む、腹のなだらかな呼吸に胸が温かくなる。
少なくとも、マナトは『無条件で守られる』ことを知っている。『無条件で愛される』ことを知っている。
「晴人さんだったら、何て答えましたか。」
「何が」
晴人の掌にかかるとマナトの小さな顔はすっぽりと覆われてしまう。この大きく、強い掌はいつか本当に守るべきものを見つけるだろうか。
「マナトの親になってくれって言われたら」
「判らない。」
間髪を入れない返答にまともに考える気はないのかと落胆する。溜めた息を鼻から吐き出して晴人の顔を覗き込んだ。
「なんだよ。」
柔らかく、惑うように笑った顔に、自分の思考の浅はかさを見る。晴人はまともに考えずに言ったのではない。ずっと考えていても判らなかったから判らないと言ったのだ。一史がマサキに問われる前からずっと、彼らを保護できたらと考えていたのだ。
「……これから、どうなるんですかね。」
「……児相に通報するしかないだろ。」
判りきった答えを晴人はマナトの頭を撫でながら呟く。それが救いになるかなんて判らない。
「俺の知ってることを、マサキに話していいですか。」
「知ってること、」
「知ってること。」
これから起こることをマサキは、知っておいた方がいい。それはきっと他の同級生が、体験するようなものではない。決して、楽しいものでもない。だけど、多分、現状を打破し、マサキ達の『未来』を手にするためには必要なもの。そう信じない限り、救われない。
晴人の顔に翳りが指す。思案が覗く。マサキ達のこれからがどんなものか調べがついていて伝えるのに臆している。優柔不断なのではない。知らせるリスクと知らせないリスクを天秤にかけ、迷っている。
「……教えてよ。」
背後からの微かな声に振り返る。一史は息を飲んで、飲んでしまってから自分の失策に肝を潰して苦く笑った。
「気にしないで、一史さん」
きっぱりと断ったマサキはどこか清涼に満ちている。その態度とは対象にハーフパンツから覗く素肌はあまりにも痛々しい。
「スカートも履けないくらい醜い足だって言うのは判ってるから」
言い放った彼女の右脛は足首から膝下までピンク色のケロイドに覆われていた。
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