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 電話はマサキが自らかけた。晴人の携帯を使って、晴人の目の前で。母親の恋人である男に虐待を受けていること、今は学校職員の自宅に保護されていること。自分の言葉で話せるか晴人は案じたがマサキは  「大したことじゃない、大したことじゃない」  と言い聞かせるように話し、ただ、電話する間側にいて欲しいと晴人に願った。晴人はなにも言わず携帯を渡し、正座したマサキの隣に座っていた。  「……縁者は、判りません。父方の祖母がいるかもしれませんが、実の父は私が6歳の頃に他界しました。」  話すとき、マサキは不安そうに目を揺らめかせたが、泣くことはなかった。自分の受けた虐待を話すとき、苦しそうに唇が歪んだ。その瞬間を見逃さず、晴人はマサキの手にそっと触れた。握るでもなだめるでもなく、そっと触れただけで、マサキは息を吸い込み、落ち着いた調子で自分の実情を客観的に話していた。  「つっかれた……」  通話を切った瞬間、マサキは晴人とは逆側に体を倒した。脱力したマサキの頭を大きな掌が包む。  「おつかれさん、何か飲むか?」  「……アルコール」  「バカか。」  そんなもん出したら児相職員に俺が調書書かされるわ。  笑いながら晴人は立ち上がった。その後ろ姿を目で追った後で、マサキは一史を見据えた。その視線に聞きたいことが何か、くらい理解できた。  「……俺は虐待を受けた訳じゃないよ」  「え。」  「聞きたかったんじゃないの?」  「いや、うん、まあ。」  言葉を濁すわりにチラチラとこちらを伺う目線は饒舌だ。  「2才で母が、8才で父が死んだから」  「……病気?」  「母はね。」  父親は、多分事故だ。事故だった。そう思うより外、ない。  台所でレンジの音がする。今日はよく活躍してる。温めたミルクの匂いにコーヒーの匂いが混じる。その味を思い出して口の中が甘くなる。  「児相で一時預かりはなかったよ、俺の場合。父親が存命中に職員が訪問してたけど。」  職を転々とする父は周囲にあまりよい印象を与えなかったのだろう。近所の人間が通報しては職員が訪問し、その度に背中が痩せていった気がする。  「で、18までは施設にいた。」  「10年?」  「何度か養子に出たよ。」  目の前の座卓に、カフェオレがふたつ。並べられた。  人の好意は時に傲慢で押し付けがましい。  引き取ってやったのに。拾ってやったのに。こんなに良くしてやったんだから見返りを寄越せと脅迫してくる。そう言う人間ばかりではないと、今ならわかる気がするし、そう思いたいけれど。  「俺はあんまり馴染めなかったんだよね。」  マサキは14歳。多分、新しい家族に引き取られたとしても、マナトと一緒なら、やっていける。今の里親制度は随分規定が厳しくなって里親の元で虐待を受けたりしないようになっているらしい。その点で言えば、ふたりは大丈夫。  自分のような思いは多分、しない。しないでほしい。  「これからのことに、不安を覚えるかも知れないけど、一度声を上げる勇気を持ったなら大丈夫。」  声も上げずに嫌われることを、捨てられることを恐れた自分は、擦れていないふりと、人懐こいふりを覚えた。仕事の上でそれは重宝するし生きていくにも大事なことだと、今は思う。  でも時々、どうしようもなく、疲れる。それをセックスで紛らわす。思春期に教わったやり方で人の体温を得る。  「マサキはマサキのままでいればいいよ。」  自分を曲げることなく、そのままで成長すればいい。マサキの背景を知ってマサキを守ってくれる人に彼女は出会えたらいい。無償の愛を与えられる彼女に、無償の愛を与えてくれる誰かが、現れたらいい。  「ぅわ、」  目の前に目を見開いたマサキが見えた。強い力と熱いくらいの熱が体を横から包んだ。何が起こったのか瞬時に理解することはできなかった。  「晴人、さん。」  白いシャツの柔い感触。陽に焼けた腕の強さ。首筋にかかる吐息。伝わってくる心臓の音。駆け足する心臓の音はどちらのものなのだろう。  布越しの体温が熱くて、温もり以上の熱量が全身に染み渡る。その熱が胸を熱して、その塊が鼻筋を通って目頭の小さな穴を熱する。目の前が歪む。水面のすぐ近く。もうすぐ浮上しきる辺りみたいな景色。  「晴人さん、」  縋り付く強い力に腕を叩く。  「晴人さん、晴人さん」  生徒(マサキ)が見てるよ。どうしたらいいか困っているよ。  その腕を伝って体の中を体温が埋めていく。

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