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たいして重たくもない片手鍋なのに、手が震える。ほぼ確定的な事実だと思うのに言ってしまってからなかったことにしたくなっている。
女々しい自分が顔を出す。
違うと言われたら。勘違いだと笑われたらどう取り繕うべきかわからなくなる。
戦々恐々としながら、その唇を眺めていた。
唇が、小さく息を吐く。吐いて、吸い込む。吸い込んで。
「他に、誰か思い当たりますか。」
覚悟のともされた目が、真っ直ぐに見据えてくる。幾度も交わした戯れや曖昧に濁した言葉に似ている。しかし、その言葉はただ真っ直ぐに向けられている。息を飲む。片手鍋の縁がカタカタ揺れる。
「傍にいて欲しいと思っています。あなたの体が好きです。自分の好きなものを知って欲しいと思います。あなたの好きなものを知りたいです。知って、好きになりたい。」
それは分かりやすいようで判りにくい、遠回しな言い方。
傍にいてほしい。知ってほしい。知りたい。共有したい。自分もまた、同じ感情を持っている。ならば、それでいいんじゃないのか。一言好きだと認めてくれたらいいんじゃないのか。
「でも、それら全てをあなたに求めたら、重たいでしょう?」
すっと、視線が逸らされる。また、諦めたような、諦めきれないような瞳が、焼き付くみたいに残像に残った。箸は座卓に置かれ、俺はうどんを丼に盛る。盛りながら、結局答えはどちらだと鈍い頭が判定するのを待つ。
一史が好きだと言う人間に俺以外は思い付かない。俺以外が好きだなんて許せない。いや、許す、許さないではないが、でも、俺以外はないだろう。一史は俺の傍にいたいと言った。俺を知りたいと、自分を知って欲しいと。それは重たいだろうか。俺自身が望むのに?一史のことならすべて余さずに知りたいと、手に入れたいと、自分のモノにして食らいついて、腹の奥底にしまい込んでしまいたいと思うのに?
重いのだろうか。
一史ひとり、手に入れて俺で埋め尽くすことは、重いのだろうか。
空になった鍋をシンクにいれる。菜箸が縁にあたってからん、と鳴る。
考えたところで判らない。
そも、自分が傷つきたくないがために保身に走ったのが物事を複雑にさせたのだ。
大股で一史に詰め寄る。一史は足音に一瞬怯む。怯んだ腕を捕らえる。一瞬、怯えた目をする。
「好きだ。」
その黒い瞳を見据えはっきりと口にした。
自分にそんな資格はないことくらい判っている。強引に体を奪って、快楽に漬け込んで、安っぽいデートも結局最後は肉欲に負けて、言葉尻を捕らえて自分に都合のいいように一史からキモチを明かすように促して。体当たりすらできない臆病風吹かせるから一層、複雑になって一史を惑わせる。
「好きだ。」
言葉にしたら震えた。一史の手を掴んだ手が、地に足をついた二つ足が、心臓が震えた。
その小心が伝播して一史が、震える。ふるりと、小さく、だが確かに震えた。
「……いや、です。」
戦慄いた唇から呼気と聞き紛うような言葉が漏れる。それは鼓膜を震わせ、胸に錆び付いて冷たい針を突き立てる。その針はギリギリと食い込み、晴人は同じように唇を震わせて息を吸った。
「そう、か。」
掴んだ手首は振り払われることなく、繋がった熱を感じさせる。
報われるなんて夢想があまりにも長すぎたせいで上手く心が機能しない。好きだと言われたはずなのに、得られた言葉が拒絶なのは理解できない。理解、できない。
その腕を引き寄せる。嫌だといったくせに一史は安易に晴人に身を任せる。
「イヤです。」
微かな声に吐息が湿っている。上擦った声は中学生のようだ。胸の中に鼓動を感じる。それが呼吸を阻害して上手く息が出来ない。泣けない自分と一史との涙が呼吸器官に溜まっていく。
「いや、です。好きだなんて、言わないでください。」
突き放す言葉。胸にしがみつく、震えた指。
泣き方も怖がり方も不器用な男なのだと初めて気付かされる。
「そうか。」
でももう、言ってしまった。言ってしまった言葉をなかったことにすることは出来ない。
器の中でうどんが冷めていく。
「おれ、」
震える指と、吐き出された息の熱さがシャツに染み込む。
「期待、してしまう。依存してしまう。」
「うん。」
期待することや、依存することを人間は辞められない。マサキが、親 に裏切られながら、一史 に期待したように。マナトが、マサキに本能的に依存するように。
「……少しずつ、慣れればいいんじゃないか。」
期待だ、依存だと言うのなら俺も同じだ。
「うどん、冷める。」
髪を撫でながら、掌に収まる頭の形を確かめた。
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