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六
シュッと肌に服の当たる音がして、眠い目を擦ったのはまだ朝の六時にもならない時間だった。
その音が、糊の効いたスーツに腕を通す音だと分かったのは、全部着てしまった後だった。
KENNのサングラスが置かれたテーブルの向こうに、スーツを着た緑の背中が見えた。
KENNの腕枕が硬くて、俺は腕より下に枕を置いて丸まって眠ったふりをしながら、その背中を眺めた。
恋愛にはくそ真面目な緑だ。
昨日の行為は本当に不本意だったろうし、――二人に抱かれて乱れる俺を見て幻滅してくれたらそれでいい。
此処で、本当に終わり。
このまま緑が部屋を出たら、もう俺達の関係は終わるだろうって思った。
話し合いからも逃げて、緑の嘘からも逃げて。
今も、逃げて行く。
好きならば、相手を好きだけでは幸せに慣れないことを、36年生きてきて俺は悟った。
本当に好きならば、俺では幸せになれないならば――ちゃんとさよならしてやることが、相手への最高級の愛情だと思う。
俺では緑をもう、幸せにしてやれない。
振り返った緑に俺は初めて嘘を吐いた。
ずっと見ていたくせに、目を閉じて眠ったふりをした。
眠ったふりをした俺に緑は近づいて、額に口づけを落として行った。
俺を、壊れやすい砂糖菓子のように扱って、触れて愛してくれた男だ。
きっと俺の嘘は見破られていたと思うけれど、お互いに気付いていない嘘を吐く。
願はくは、緑が幸せになってくれること。
俺を忘れて、誰よりも幸せになってくれることだけだ。
パタン……。
閉められた扉の音が余りにも大きくて余りにも大きく響いたけれど、俺は溢れる涙を堪えることでしか嘘を守れなかった。
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