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劣等感 六

違うんだと言いたいのに、彼の身体が強張るのが見える。 「お願いだから、大声出さないで」 「ごめっ」 「今は、君の声も聞きたくない。ごめんね。思い出して泣きそうになるんだ。……話しかけないで」 「……」 「俺も悪いところはいっぱいあるんだけど、……冷静になれなくてごめん」 コップを洗うと、そのまま部屋に戻っていく。 お茶を取り出すのさえ躊躇う姿に、胸が痛む。 やり直したい。昨日の俺を殴りつけたい。 声が聞きたくないと言うので、メールで『朝ごはんとお昼ご飯を冷蔵庫にいれています。お願いだから食べて下さい』とだけ送っておいた。 「あれ? 店長、涼くんは今日休み?」 「涼くんに、この前言ってた漫画貸そうと思ったのに」 女子高生二人は、すっかり涼さんファンの常連で毎日顔を出していた。 待ち受けは三人でピースしてるやつで、二人に倣ってゲームのアプリを休憩中にしたり楽しそうだった。 「あら? あの笑顔が可愛い店員は?」 「この前さ、あの子がひざ掛け持ってきてくれたから助かったからお礼言いたかったんだけど」 いつの間にか狙っていたのか、漫画家二人組も涼さんに会いに来た。 彼が俺の店で働いてくれたのはほんの数日だ。 ころころと変わる表情に、俺にはできない気配り。 生きてきた場所も、方法も違うし、彼の人間性なんだと思う。 ――それを俺は昨日、力づくで否定してしまったんだ。 震えるからだ、怯えて濁っていく瞳、泣き崩れるくしゃくしゃの顔。 最低だ。誰でもいいから、俺を殴ってほしい。 それで彼に、彼は悪くないのだと言ってあげて欲しい。 「……っ」 仕事中浮かぶのは、彼の泣き顔。泣き声。――心が離れていく瞳。 何を言っても、何をしても遅すぎた。 閉店してすぐに二階へ上がると、涼さんの靴は無くなっていた。 冷蔵庫の食事もそのままで。 部屋を開けると、俺が購入したものが部屋の隅に片付けられていて、彼のボストンバックだけがなくなっていた。 いや、一番大切なものがなくなっていた。 テーブルの上には、『後日、お金は返します』とだけ書かれてたノートの切れ端が置かれているだけだった。 ……彼が、あの眼鏡の男の元へ行ったのだとしても俺に止める権利はない。 一晩泣きはらした彼の姿を思うと胸が痛む。

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