34 / 56

第34話

【朝陽 No. 16】 数日振りに寺を訪ねたが、屋内からは人の気配がしなかった。 休日で、約束があったわけでもないけれど、恵果さんが庭にいないか確認をしようと建物を回り込んで歩いていった。 視線の先の木陰に、人影が見えた。いやな予感がした。 見覚えのある背中の向こう側で、こちらを向いているのは恵果さんだった。 あ、と思う間もなく口づけがなされる。恵果さんの視線がこちらを捕らえ、そのまま口づけは深くなる。 見たくもない光景から目が逸らせない。 男の背に腕が回されるのを見て、思わず玉砂利を踏みしめながら歩き出した。 俺の足音に二人は気づいて振り返った。 「恵果さん、もう止めてください」 男の背中に残る腕を掴んで引き離すと、恵果さんはあっさりとこちら側に立ち位置を移した。 「もう、恵果には会うなと言っただろ?」 男が嘲笑(あざわら)いながらそう言った。 「これは俺と恵果さんの問題です。あなたにそんな事を言われる筋合いはありません。ご自分の居場所にお帰り下さい」 その言葉に気色ばんだ男に胸倉を掴まれた。 「恵果は俺に連絡してきたんだ、お前じゃなくてな」 そんな事、この状況を見れば想像がつく。恵果さんは不安な事があると揺れる。その弱さを(いびつ)に埋めようと手を伸ばすからこういう男を引き寄せるのだ。 手首を取って捩じり上げる、胸元を掴んていた指先はすぐに離れた。 「そろそろご家族が心配されているのではありませんか?」 男は言い返しこそしないにせよ、怒りをあらわに荒々しい足取りで帰って行った。 門をくぐって行くのを見届けてから恵果さんの方を振り返ると、思い切り目を逸らして背中を向けられた。 「恵果さん!」今話をしなければまたこの人は俺の手をすり抜けて近くにあるものに縋ってしまうかもしれない。そう思ったら少し強い口調になってしまった。 「なんですか?」 足を止めた恵果さんが小さく呟いた。 「5年前、気持ちが通じたと思ったのは気のせいだったと思ってました。でもこちらに帰ってきてあなたにお会いしてそうではなかったと気付きました」 俺の言葉を拒絶するように恵果さんの身体はここから逃げようとしていた。思わず手を掴んで振り向かせる。 「雲英にやきもち焼いたり、そんな風に拗ねてみせるのなら、全部俺が引き受けるからもう他の男は全部忘れて下さい」 言い終わるか終わらないうちに、不安気に揺れていた瞳が強く光った。 「貴方はっ、私がどんな思いで、あの時辛く当たったか考えた事がありますか!? 私はもう、ずっと前から貴方しか...貴方の事しか見ていいなかったのにっ!」 恵果さんの言葉はどこか別の場所から聞こえる様で、頭が痺れてうまく理解できなかった。 「俺の事?…恵果さん、そうなんですか?ではあの男を選ぶと言ったのは嘘だったんですね!…あなたという人は、本当に!」 そう言葉を紡ぎながら、感情の高ぶりに打ち震える人の手を引き寄せて腕の中にしっかりと閉じ込めた。 「選んでなど、いませんっ勝手に勘違いしたのは、貴方ですっ...も、離してくださいっ」 腕の中のいじらしい抵抗も、今となっては照れ隠しのような言葉も無視して、紅潮した頬に目を向けた。 5年分の自分の気持ちと恵果さんの嘘、今ならこの位許されるだろう。

ともだちにシェアしよう!