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第36話

【朝陽 No. 17】 抱きしめていた腕を緩め、必死にこちらの胸を押してくる手を取った。恵果さんは僅かに身を引きつつも、目を逸らすことはなかった。 涼しげな眼もとは紅潮している。さっき捕えた時に乱れた髪に指を通して整えながら、もう片方の手に紙袋を持っていたことを思い出した。 目の前に持ってくると、恵果さんが首を傾げて聞いた。 「それは?」 「忘れてました、おいしい葛きりを理由にお邪魔しようと思ってたのです。お好きでしょ、葛きり」 恵果さんが目を細めた。 「良く覚えてましたね?ありがとうございます。 では、部屋に行きましょうか」 そう言いながら心なしか楽し気な足取りで部屋の方に歩き出した。 部屋に上がりそわそわと落ち着きがなく準備をする指先を見つめていると、それに気づいた恵果さんに苦笑された。 「見ていては駄目ですか?」 その言葉に目を逸らしながら「お好きに...」なんて言われると、胸の奥が蕩けそうになる。 目の前に出されたガラスの器には、とろみのある黒蜜の中に泳ぐ透明な葛きりが浮かんでいる。それが雪見障子から入る初夏の光を弾いて、てらてらと光っていた。 「どうぞ、おもたせですが…」 恵果さんに促されてそっと口に運べば、風味のある蜜の絡んだ葛が口の中に滑り込む。ひたすら静かな部屋の中、恵果さんの口から洩れた溜息だけが聞こえる。 食べ終わってどちらともなく顔を上げると、うっとりとした表情でこちらを見ていた。 「恵果さん、一つ報告があります。雲英の事です」 その言葉に、折角緩んでいた表情が固まった。 「結果から言うと、もう電話はかかってきません。 あいつ、DV被害に遭っていたんです。もしかしたらそれもあの電話の原因の一つかもしれませんが、引っ越しして警察に被害届を出すのを手伝うかわりに恵果さんの連絡先を消してもらいました」 恵果さんは頷きもせず黙って説明を聞いていた。そして聞き終わると静かに立ち上がり俺の後ろに歩いてきた。 部屋から出て行ってしまうのではないかと一瞬不安に思ったが、すとんと背中合わせに座り体重を預けてきた。 振り返りたかったけれど、動いたら逃げられるのではないかと思い留まっていたら後ろから声がした。 「少しだけ、我慢して下さい」 服越しに伝わる体温が心地いい。ようやく自分に寄りかかってくれるようになったのだ。 手を後ろに回して髪に触れた。そっと撫でながら、聞きたかった事を口にした。 「昔の恋人、とおっしゃってたあの方の事を、まだ忘れられないのですか?」 「忘れられないのは私ではありません」 首を左右に振りながら恵果さんは言った。 「俺は、他の人があなたに触れるのは嫌なんです。これからは…俺だけを見ていてくれませんか?」 そう言うと手がそっと脇に置かれるのが見えた。承諾の印だろうか?上に掌を重ねると指が絡まってきた。

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