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第50話
【朝陽 No. 24】
菓子折りを持って謝罪先の会社に入る前に、課長にそっと耳打ちされた。
「言葉には重々注意して。癖のある人だから」
通された応接室には好戦的な表情の担当者がすでに待っていた。謝罪をしている間も身体を斜めに向けており、こちらの説明が終わるとようやく前を向いた。
「謝罪はいらないんですよ。そんな事じゃなくて、ある時点まで直っていた修正が、新しいバージョンでまたおかしくなってるのはどうしてなんですか?毎回全て確認なんかしていられないですよ、時間の無駄!」
謝ろうとする課長を遮り、担当である俺に直接説明をするように求めてきた。
「…すいません、お持ちする前に前の分まで遡って確認するべきでした」
「あのね、これ、仕事なんだよ。俺が全部罪かぶりますから的な自己満足なんてクソなんだよ」
30分程延々と理詰めで責められ、謝罪をするたびに怒られた。結局相手の満足する対策を提案する事で1時間後にようやく話し合いは終了した。
部屋を出掛けに、呼び止められた。
「どうして前の担当者が来ないの?前任者の失敗の責任転嫁をかわす技も身に着けてないくせに親の会社に戻るのは早すぎたんじゃない」
この人は俺が後を継ぐことを分かっていて値踏みしたのか。そう思うと悔しいのと、自分のふがいなさに腹が立った。
****
会社に戻り車を降りると、初夏の風が微かに薫った。
夏が来る。
玄関に向かおうとした時ふと呼ばれたような気がして振り返った。人の気配と、社門の陰に一瞬単衣 の袖の端が見えた気がした。
「課長、先に行っていただいていいですか?」
振り返らずに片手を上げたのを了承と取り、門の方に歩いて行った。
「恵果さん?どうされたんですか」
門の陰にいたのは矢張り恵果さんだった。声を掛けると、ゆっくりと振り返り大きく目を見開いた。
「最近、寝てますか?酷く顔色が悪いですよ」
おずおずと差し出された手が頬に触れる。ただの指先なのに、触れたところから水紋が広がるように力が抜けてゆき、心が限界に近くなっていたことにようやく気が付いた。
思わずその手を握りしめて言った。
「…ありがとうございます。あなたに会えたので、もう大丈夫になりました」
本当は抱きしめたかった。そんなところに恵果さんは目を逸らして俯きながら菓子折を押し付けてきた。
「家の修繕のお礼です。皆さんで食べて下さい」
その唐突な訪問の言い訳と、照れ隠しする様子があまりにもいじらしい。このまま手を引いて車に乗せ、何処かに行ってしまいたいとさえ思ってしまう。
「…あなたは、そんな事をして俺を殺す気ですか?」
驚いて顔を上げた恵果さんの唇にそっと親指を滑らせる。
「ここでは、これが精いっぱいです。仕事が落ち着いたら会ってください」
いつまでも触れていたい、許されるのならば永遠に。そう思っていたのに恵果さんは唇から手を外した。そして…指先に口付けてくれた。
肌に触れた一瞬の暖かさが、自分の置かれている閉塞的な現実をいとも簡単に打ち砕く。
「あまり、待たさないで下さいね?」
こんな些細な言葉ですら、今いる場所にも時間が流れている事を教えてくれた。
さっと身をひるがえして小走りで去って行く背中が遠ざかって行くのを見て、指先の感触を忘れないようにと思いながら会社に戻った。
****
忙しさの続くある日、突然組織変更があった。田澤さんが率いていたプロジェクトは事実上複数のグループに解体され、その取りまとめを自分がやることになっていた。廊下で会った課長が小さな声で、客先から複数のクレームがあった事、それについて調査したら不審なお金の動きがあった事を教えてくれた。
机に戻ると、風邪で4日ほど休んでいた田澤さんが黙々と書類をシュレッダーにかけていた。
紙を入れすぎたシュレッダーが止まる音に続いて、繰り返し金属を激しく蹴る音。部屋中の社員がそちらを見た。田澤さんは下を向いたまま小さな声で罵りながら蹴り続けていた。
「畜生、どんなに頑張っても結局あいつのものになる会社で働いててもしょうがないんだよ!」
田澤さんは会社を辞めた。先日謝罪に行った客先が彼に対するクレームを上げていた、と後で聞いた。
正直彼がいなくなってほっとしたが、最後に投げつけられた言葉は意志を持った棘のように心に深く刺さっていた。
跡を継ぐ事の重さ、もしかしたら恵果さんもその煩わしさに苦しんでいるのだろか。
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