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第3話

 今の皐月はあの時と同じ表情をしている。教室で見せる健康的な笑顔とは違う、人が心掻き乱されるのを楽しむような意地の悪い顔。 「境先輩とヤったの?」 「うるさい。今その名前出すな。余計なこと言ったらヤらせない」  境には一年の時から友達以上の親密さを感じていて、二年になって付き合い始めた。視線で合図を送りあったり、手を繋いだりハグや軽いキスをする淡い関係だったけれど、奏衣は幸せの絶頂にいた。  部活に入っていない奏衣は、よく陸上部の境を教室で勉強しながら待っていた。ちょうど境が走っているのが見える窓際で。遠すぎてお互い見ているかなんてわからないはずなのに、なんとなく目があったなと思って小さく手を振ると、向こうも手を振り返してくれた。そんなささやかなことが嬉しくて仕方なかった。 「やったー!奏衣先輩の処女いただき!」  こいつとセックスするのかと思うと頭がくらくらしてきたが、初体験に思い入れがあるわけでもなし、この程度の軽さでいいんだと思い直す。そう、大事にするほどのものでもない。 「誰も初めてとは言ってないだろ」 「どうせ向こうでも全然そういうのなかったんでしょ。境先輩が忘れられなくて」  事実まま言い当てられて、奏衣は唇をきゅっと結ぶ。  幸せ真っ只中にいたのは自分だけだったらしく、あっさり境に振られた。ふたりの関係が噂になりかけていたことを知り、自分が嫌われたわけじゃないのならと必死で縋った。奏衣の媚びるような態度がますます境を遠ざけた。  突然の失恋に耐えきれず、イギリス留学と称して奏衣は逃げた。それはかなり切実な選択で、田舎から特に興味もない外国へ死ぬ気で逃避行を遂げた。  ロンドンで彼氏作るぞーと躍起になって、ちょっと親しくなった相手にはゲイオープンにしていたのでわりとモテた。失恋の反動と知り合いがいない気楽さ、期間限定という三つ条件が揃っても、皐月に言われた通り、心に他の男がいるままじゃ誰ともなんともならなかった。 「ごめん。適当に言ったのに当たりなんだ。そんな顔しないで」  皐月の大きな手が、するっと奏衣の頬を撫でた。その手が触ってもいいのかためらうようにこわごわと動いたから、胸の内側がざわりと波立つ。  自分はどんな顔をしていると言うんだろう。薄情な境のことなんて、とっくに忘れたはずなのに。 「別に。昔の話だし」  留学時は離れてさえ境のことばかり思い出していた。新しい環境の中で、否応なしに自分が鮮やかに塗り替えられて行くのが嫌だった。忘れるだなんて離れておいて、何ひとつ忘れたくなかった。それなのにその男は、もう奏衣の中に存在しない。

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