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第8話
「今だからだよ。しょうがないな…」
その言葉はいつも奏衣から皐月に向けられていたはずだったのに。
「優しくされたいなら、そう言いなよ」
そうじゃない。そうじゃないけど、自分はとっくに目の前にいる年下の男に取り込まれていたのだと気づいた。
「泣かしたくなっちゃったよ」
『それはこっちの台詞だ』という言葉は喉元でわだかまって出てこない。すぐ触れられる距離まで戻ってきた皐月は、そっと奏衣の髪に触れた。
「俺は、奏衣先輩が好き。この先も離れたくない。大学は蹴って、東京の予備校に申し込んだ」
「え?」
「地元の国立だけは受けろって親に言われるままこんな状況になったのは、俺の気持ちがぐらぐらだったから。こんなじゃ奏衣先輩に追いつけない。でもあんたほっといたら、一年どころか瞬間で俺のこと忘れるだろ。だったら一緒に行くしかないなって。費用は必ず返すからって許してもらった」
「そんな重要なこと簡単に…」
「重要だから。将来のこと考える一年はきっと糧になる。入試までに決めとけよって話だけど、なんにも考えずに大学行くよりこの方がいいんだ。人とおんなじように進む一年じゃなくてもいいって、大事なことだけ見とけって奏衣先輩が教えてくれた」
確かにマイナス感情で遂行した海外逃避の一年は明らかに奏衣を成長させた。同級生が先に卒業しても不安はなかったし、この一年楽しかった。
隣にはいつも皐月がいた。最初こそ相当イラついてぶつかり合ったものの、いつの間にか意識することさえなくなっていた。
脅されて仕方ないから受け入れる。そんな関係だったはずが、もう何もかも違っていた。面倒だから、深く考えないようにしていただけだ。
塾の授業を終えて自習室を覗くと皐月がいて、呼ばなくてももうすぐ奏衣が来ることを知っていて笑顔を見せる。その瞬間、肩のあたりがすっと軽くなるような気がした。
この部屋で、皐月が仕掛けてくるのを待ってはいなかったか。風が吹くような軽やかさで毎日を皐月が占めていくのは、全然嫌じゃなかったはず。
「奏衣先輩は?どうしたい?」
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