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第108話 synapse (シナプス)

 電流を強めた。いよいよ限界に近い値だ。君のシナプスはもはや、このぐらい強い刺激を与えなければ信号を繋げることが出来ない。君は今、醒めることのない悪夢を四六時中見ている。君の望んだ通りに。  どんな悲しみでも怒りでも構わない、俺は記憶も感情も手放したくないんだ、それらがなくてどうして人間だろうか、俺は人間であり続けたいんだ。  そう言って泣いた時の君の虹彩は暗い青緑色をしていた。青は悲しみの色だ。そこに怒りが加わると緑色がかってそんな色になる。治癒方法はないと告げられた時にはブラックホールのような闇の色をしていた。  それでも病気がここまで進行する前は、赤やピンクになる瞬間もあったのだ。たとえば僕が君の病室に見舞いに訪れた時。僕の姿が君のルビー色の目に映っていた。その色は好意の色よ、とナースが教えてくれた。彼女は、その赤味の深さが増すほどに恋愛感情が強い……ということまでは教えてくれなかったけれど、少しでも君の力になりたくて、独学で病気について調べているうちに知った。  入院したって治るわけでもないのだからと、僕は君を連れて帰った。念願の二人暮らしがこんな形でスタートするなんて思ってもいなかった。  浮かれる暇などあるはずもなく、深いルビーの色は日に日に薄れていった。恋愛感情に限らず喜怒哀楽を奪っていく奇病。せめて悲しみから消えてくれればいいものを、嬉しいこと、楽しいことから分からなくなっていくのだという。その次には怒りが。その瀬戸際に、君は最後の憤怒を込めて「人間であり続けたい」と叫んだ。  今の君は悲しみしか知らない。それすらも通電によってなんとか手繰り寄せる感情だ。その時だけ君の目からは涙があふれる。  やがてこの涙さえも枯れるのだろう。その日を少しでも先延ばしにするために、僕は毎日君に電気ショックを与え、脳を刺激し続けている。でも、もう、限界だ。  僕は君の眼の下に小さなガラス瓶を押し当てた。わずかに溜まる数滴の涙だけが君の感情の証。君が生きた人間であることの証。でも、それをどうするわけでもない。  通電をやめた翌日には、もう感情は完全に失われたように見えた。何の感情もない、洞(うろ)のような目。  君がそうなりたくないと叫んだその姿が、そこにある。  僕はガラス瓶を手に取る。昨日蓋をするのを忘れて、すっかり乾いてしまっている。何日分の涙をそこに溜めていただろうか。それも何の跡形もなくなった。  いや。  僕はそれを日にかざしてみる。瓶の内側にかすかにこびりついている結晶のようなもの。涙の塩分だろうか。  きれいだ。いつだったか二人で行った海辺の、あの星の砂のようだ。二人だけで過ごした甘い数日間の記憶が蘇る。  そう思った直後には、馬鹿みたいだ、と思った。  星の砂なんか似ても似つかない。こんなものに何の意味もない。あの海辺の出来事だって、もう君は思い出しやしない。  僕は笑ってしまう。それと同時に泣いた。怒りも湧いてきた。君が失った分の感情が一気に押し寄せてきたようだった。  畜生、と怒鳴って、君にガラスの小瓶を投げつけた。君のこめかみを掠って壁に当たり粉々になる。そのガラス片で切ったのか、君の頬に赤い筋が浮き上がる。  でも、君は痛いことも分からない。こんなことをしでかした僕のことを怒りもしない。  畜生、ともう一度言った。それから、君の頬の手当てをした。 「……ありがとう」  小さく聞こえてきた声の意味が分からなかった。いや、もちろん「ありがとう」という言葉の意味は分かる。でも、それを、誰が? 「嬉しい」  今度はもっとはっきり聞こえた。君の唇が動くのも見た。 「今の……君が?」  僕の言葉に君は頷く。そして、微笑んだ。 「分かる……感情……戻ってきた……生きてる……」  片言のように君は言う。でも、今度こそ意味は分かる。僕は君を抱擁した。 「星……砂……たのし……かった、ね……」 「それも覚えてるんだ?」 「うん……思い……出した……ぜんぶ……」 「僕のことも?」  君は僕を抱き返し、何度も頷いた。 「……俺の……いちばん……好きな」  (終) ------------------------------ 診断メーカー「奇病にかかったー」のお題より 古池十和は感情によって虹彩の色が変化する病気です。進行すると感情がなくなってゆきます。星の砂が薬になります。 https://shindanmaker.com/339665

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