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第135話 Scarface ( for にむまひろ様)
俺はその男の手の温もりを知っていた。
その手を握り、力の限りに引き寄せた。不意を突かれ重心を失った彼の体重が俺にのしかかるが、たいしたことはない。この重みに、ずっと焦がれていた。
かつては俺よりずっと大きかった男。激しい銃撃戦のさなか、その逞しい腕が俺の頭を撫で、俺の手を引き、貧しく卑屈なあの街から連れ出してくれたあの日。保護施設の門をくぐるところまでは一緒にいたはずだが、安全な場所に逃げおおせたと分かった瞬間、俺は気を失い、次に目を覚ましたときには男の姿は消えていた。
「あの人はどこに?」
シスターに尋ねても首を横に振るばかりで、その否定は行方が分からないという意味なのか、俺には教えられないという意味なのかもついぞ分からずじまいだ。
彼にたどりつける目印と言えば、あの傷のある顔 だ。派手な流血こそしていなかったが、まだ生々しい傷だった。あろうことか彼の整った顔を斜めに切り裂いたあの傷は、何十年経とうときれいに治ることはないだろう。
表舞台に立てるような稼業の人間ではないことも確かだった。俺の生まれ育った貧民窟は麻薬の売買も売春も殺人も日常茶飯事だったが、集団でのドンパチと言ったらおおかたギャングの縄張り争いだったのだろうし、彼もその構成員の一人と考えるのが自然だ。
そして彼は、あのとき隠し部屋のクローゼットに潜んでいた俺の元に、迷わずやってきた。俺の「仕事場」だったあの小部屋。――年端もいかぬ少年専門の売春宿に。あの部屋に入ってきて、俺に「さっさとケツを出せ」と命令しなかった男は彼だけだった。
数年後、俺は保護施設を出た。教会付属の施設は最低限の衣食住を保証してくれたが、それだけだった。いつの間にか俺があの掃きだめのような街で何をしていたかは知れ渡っていて、俺より先に保護されていた年長の少年たちから、客相手にするのと同じことをするよう要求されるようになった。ほかに娯楽らしい娯楽もない中の鬱憤晴らしだ。金も払わないのだから、かつての「客」よりもひどい。だが、最後の相手はそういった「保護されたこども」ではなく、神父だった。
神父を半死半生の目に遭わせた俺が次に寝泊まりすることになったのは、少年院でも刑務所でもなく医療矯正施設だった。施設内では麻袋を被ったような間抜けな服を着せられた。シャツやズボンを与えると、それを輪にしてぶら下がろうとする奴が多いせいだ。
「あなたは傷ついているの。もう自分を責めなくていいのよ」
目の前にいるはずのドクターの言葉はやけに遠くに聞こえて、意味がうまくつかめなかった。ただ「傷」という単語だけは耳に残った。
――傷。
――あの人は、あの大きな傷を持つ人は、今どこにいるんだろう。
ドクターの顔もよく分からなかった。分かったのは口紅をしているということだけだ。その赤い口がパクパクと動くさまを、毎日一定時間見て、時折「ああ」だの「いいや」だの呟くのが、ここでの俺の仕事らしい。赤い口は食堂にもいたし、廊下を掃除していることもあった。どれが誰なのか区別はつかなかった。
――あの人だったら、すぐに分かるのに。あの顔の傷を目印にして。
そこでどれだけの月日を過ごしたのか定かではないが、十八歳で退所のルールだと聞いたから、つまり俺は十八歳になっていたのだろう。その頃には赤い口の見分けが付き、それぞれの名前で呼びかけ、挨拶できるようになっていた。
「元気でね。ここを出たらきっと素敵な出会いが待ってるわ」
「さよなら。いろいろありがとう」
ファーストネームで呼ぶことを許してくれた医師は快く握手に応えてくれた。小さくて華奢な手だった。彼とは違う。
矯正施設からあっせんされた仕事は製パン工場だった。しばらくして車の免許を取ると、できあがったパンを運ぶ係になった。納入先は病院だったり刑務所だったりした。
警察にも運んだ。署内に食堂があるのだそうだ。
軽トラからパンの詰まった箱を出し、台車に載せる作業をしていると、警官が話しかけてきた。
「今日のパンはなんだい」
定番のパンとは別に日替わりの惣菜パンもあったから、それを尋ねているのだろう。そう思って顔を上げ、説明しようとした。
「今日は白身魚のフライの……」
そこまで言って、言葉に詰まった。
「魚か、僕はいまいち魚は苦手なんだよ。おまえは?」
そばかすだらけの警官は、彼の背後にいたもう一人の警官のほうを振り向く。――そばかすの代わりに、斜めに走る大きな傷を持つ男を。
「タルタルソースも手作りで……魚が苦手なお子様でも……」
俺は丸暗記させられた口上をぶつぶつと呟いた。
「おいおい、こども扱いはやめてくれ。こいつより年上なんだぜ。ま、こいつが老け顔って話もあるがな」
そばかすの顔など見ていない。俺が見ているのは、その肩越しに見えるあの男。ただ、あんなに目立つ傷のことより「老け顔」をジョークにできるような仲間がいることには感謝した。
「どうしたよ、パン屋くん?」
棒立ちして見つめ合う彼と俺の異様な雰囲気に、ようやくそばかすが気付いたらしい。
「あ、いえ、すみません。ちょっとボーッとしてしまって」
「熱中症か? 今日は暑いもんな。しばらく中で休んでいけよ。救護室もあるし」
「だ、大丈夫です」
その時だ。男がずい、と前に出てきた。
「だめだ、そんな顔色して。休んでいけ」
有無を言わさず腕を取られ、引きずられるように建物内に連れて行かれそうになる。
「あ、あの、パン」
男はそばかすをチラリと見た。「それ、中に運んでおいてください。じゃ」
「お、おいっ、僕ぁ先輩だろっ」
そばかすの声を無視して、男は俺を「救護室」とはとても思えない、用具入れのような狭い部屋に連れ込んだ。
「警官……だったんですね」
「覚えてるのか」
俺は頷く。――忘れたことは一度もない。誰の顔も分からなくなってしまっても、あなたのことだけは忘れられなかった。
「傷、やっぱり残ってた」
「醜いな? おかげでこどもに怖がられる」
「いいえ。俺はちっとも怖くなかった」
「……そうか」
すると彼は急に俺の前にひざまずき、頭を下げた。
「許してくれ。あそこなら安全だと信じてたんだ」
あそこ? ああ、あの保護施設のことか。そうと気付くのに少し時間がかかったぐらい、もう過去のことだ。
「安全でした。あの街よりはずっと。あのままあそこにいたら、俺は今、生きてない」
「君を救った気になっていた自分が恥ずかしい」
「何故です? 間違いなく、あなたは俺を助けてくれた」
だって、あなたがいたから、生きる目標ができた。いつかあなたにもう一度会いたいと、それだけが俺の唯一の願いだった。
「ずっと……忘れられなかった。後悔していた。あんなところに連れて行かず、自分の元へ連れてくればよかったんだ」
何年前の話だ。彼はまだ駆け出しの警官だったはずだ。そんなことができたはずがない。教会の施設なら大丈夫だと信じていたぐらいには世間知らずで善良だった若い警官は、最大限できることをしてくれたのだ。むしろ、初対面の男娼のガキによくあそこまでつきあってくれたものだと。
そう思って、ふと気付いた。
「あの日より前に、俺、あなたと会ったことがありましたか? つまり……客として」
隠し部屋。クローゼットの中。家捜しすることもなく、一直線にそこにたどりついた男。そんな真似ができるのは、一度でもあの部屋に足を踏み入れたことがある者だけだ。
彼は首を振った。
「ないよ。……ただ、あの場所は知ってた。君よりも昔、あそこは俺の部屋だったから。今はもう建物ごと壊されて跡形もないけど」
俺は言葉を失う。彼が、俺と同じあの部屋で、同じことを?
「俺が警官になったのは、あそこで俺と同じ目に遭うこどもたちを救いたかったからだ。あの日、抗争に紛れ込んで君を連れ出すのに成功する前にも何度も潜入を試みた。でも、結局いつも先回りされて逃げられて、その時のすったもんだでこんな怪我もした。……だが、中には俺が首を突っ込んだせいで殺された子もいたかもしれない。それを思えばこれぐらいの傷なんか」
ひざまずいたままの姿勢で、彼は俺を見上げた。
「君だけだったんだ。あそこから生きて逃がしてやれたのは。だから俺は、ずっと、君だけはどうか生き続けて、幸せになってほしいと願っていた」
俺は足元にいる彼の頭を上げさせ、その頬に触れた。右の頬から鼻梁、そして左目の下に至る一筋の傷に沿って指を滑らせる。――あなたの目印。俺のための。
「ギャングにならなくてよかった」
俺が笑うと、彼はきょとんとした。そんな彼に、今度は俺が手を差し出して、立ち上がらせた。あの日あんなに大きく見えた彼は、いつの間にか俺よりも小さくなっていた。
「あなたに会いたかったけど、どこの誰か分からなくて。てっきりギャングだと思ってたから、俺も仲間に入ればいつか会えるかもって思ったことがあったんです。でも、間違えて敵対グループに入ったらまずいな、と。まさか警官だったなんて」
彼も笑った。初めて見る笑顔だった。
「俺も君を逮捕する役割はごめんだな」
「そうですか?」
俺は彼の手首をつかみ、一気に引き寄せた。バランスを失った彼の体重が俺にかかる。
「俺のこと、つかまえててくださいよ。ずっと。そしたら幸せになれます、あなたの願い通り」
俺は力の限りに彼を抱きしめる。すると、体勢を立て直した彼の腕もまた俺の背に回り、力強く抱き返してくれた。
間近で見るスカーフェイス。その愛しい傷に口づける。頬と、鼻の頭と、目の下あたり。
やがて彼のほうから近づいてきて、唇を重ねた。
あの手と同じ温もりの、優しいキスだった。
(了)
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*iqイケそな正解者景品作品 リクエストお題「顔に傷のある男に生涯一度だけ惚れた男の幸せ」
にむまひろ様から、イラストをつけていただきました。
https://fujossy.jp/notes/23053
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