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第142話 黒猫と鳶 ( for むに様)
俺は一匹の猫を飼ってる。拾ったときは少々弱っていたが、今ではすっかり毛艶もいい。俺によく懐き、俺にしか懐かないこの黒猫とは、今は大工の俺が鳶をやってた頃に出会った。
「どうして俺には懐いてくれないのかな」
パートナーが苦笑いしながら猫用のおやつを必死にアピールしている。彼は鳶の先輩で、今も鳶だ。
「こいつは特別だから」
俺が手を差し出せば、猫はそこに顔をすりつけてくる。
「そういや最初からおまえにしか懐かなかったもんな。こんな強面なのに。……ま、怖いのは顔だけだけど」
そう言いながらその「強面」にキスしてくるそいつだって、別に可愛い顔なんかしてない。今だって、まばらに生えた無精髭がチクチクするってなもんだ。
「あんただって懐いたじゃないスか、先輩」
「逆だろ、おまえが俺に懐いたんだ」
「はは」
懐いた野良猫を引き取りたくて、猫好きの先輩に相談したのが俺たちのなれそめってやつだ。
あれからもう何年経ったろう。猫の寿命がいくつだか知らないが、きっと俺が死ぬときまでそばにいてくれる気がしている。だってこいつは特別だから。
◇◆◇◆◇
「ここ、何になんの?」
背後で声がしたが、ちょうど握り飯に食らいついたところだったから、無視を決め込んだ。そもそも、ちゃんと見りゃすぐそこの仮囲いに「A様邸 新築工事」と掲示してある。
「ここ、黒川の家じゃないの」
諦めが悪い奴だ。俺は顔を上げて周りを見る。今日に限って、棟梁も先輩もコンビニにでも行ってしまって出払っているらしい。
「前に住んでた奴のことは知らない。でも、次に住むのはその名前じゃないな。そこに書いてあるだろ」
「そっか。そうだよね」そいつは図々しくも敷地に入ってきて、俺の脇に立った。よく見れば制服だ。高校生か。「もう三年も経ってるんだから」
「三年? 何が」
「この家……ここにあった、前の家ね。火事になったんだ。三人家族が住んでて、お父さんとお母さんは死んで、当時中学生だった息子だけが生き残った。二人も死んでるから、更地になってもなかなか買い手がつかなかったとは聞いてたけど、売れたんだね」
「詳しいな」そう言いながら、ふと気付く。三年前に中学生だったなら、今頃はちょうど。「まさか、その息子って」
「うん」彼は制服の袖をまくった。肘までしか見えないが、おそらくは上腕から続いているのだろう、広範囲の火傷の痕。
「そりゃ大変だったな」
「でも実は僕、それ以前の記憶がなくなっちゃってさ。だから火事のことは別に辛くないんだ」
いつの間にか彼は俺の隣にちょこんと座っている。まるで猫みたいだ。昨日もここに猫が来て、握り飯の具の鮭をやろうとしたら、先輩に怒られた。猫に塩辛いものがダメだなんて知らなかったんだ。
「まあ、それにしたって、急に親がいなくなりゃ大変は大変だろ」
彼は少し驚いた様子で、目を見開いた。かと思うと、くすっと笑った。
「優しいんだね」
「見た目で判断するな」
元々上背もあるほうだし、こんな仕事をしてりゃ筋肉だってつく。視力が悪いせいか目つきも悪いようで、外見で怖がられることは確かに多い。でも、ケンカなんかしたことないし、酒もタバコもやらないってのに損だと思い、チャラ男に見せかけようと金髪にしたのが逆効果だったらしく、更に人が寄りつかなくなった。
寄ってくるのは野良猫とワケあり少年だけってことか。
「……でも、いいなあ、大工さん」
「え?」
「大工さん、でしょ?」
「いや、俺は鳶」
「違うの?」
「ああ。調べろよ、今時の若いのはスマホでチャチャッと調べられんだろ?」
「若いのって」黒川少年は声に出して笑った。「そんなに年、変わらないんじゃない?」
「……二十歳」
「ほら、二つしか違わない」
「でも社会人だ」言ってから、ダサいセリフだと思った。ニッカポッカの隣に並ぶ制服のズボンは、小洒落たチェック柄。俺には似合わない。「高校には一週間しか行ってねえしな、十五ん時から働いてる」
「すごい」
「すごかねえよ」
「すごいよ」
彼はまだ足場しか出来上がっていない目の前の建物を見上げた。
「後に残る仕事ってかっこいい」
「残るったって、出来上がったら、もう、それは俺のもんじゃねえし」
「え?」
「仕事の間はさ、あの上乗って、周りを見下ろして、気分最高。でも、俺の仕事はそこでおしまい。他の奴が壁作ったり屋根作ったりする頃には、俺はもうここには必要とされてない。ここで俺の仕事って言えるのは設計屋か棟梁だけで、建ったもんはお施主さんのもんだ」
「でも」彼は今度は地面に目を落とした。革靴の先で地面を蹴る。「出来上がった後、この道を通ることがあったら……この家を見たら思い出すことはできるでしょ。ここで頑張って仕事したなーって」
「いちいち考えやしねえよ、そんなこと。ここが終われば次の現場に行くだけの話で」
ふと彼を見たら、淋しそうにうつむいている。俺のせいか。俺の言葉がこいつを傷つけたのか。
「あのさ」と言ったきり、次の言葉が出てこない。だって、何がこいつを傷つけたのかさっぱり分からなかったから。
口を開いたのは向こうだった。
「火事のあと、親戚中で僕の押し付け合いみたいになってさ。結局叔父さんに引き取られたんだけど、遠いところでね。ここに来るのは、あの時以来なんだ」
話がつながってるのかどうかも分からないままに、俺は答える。
「三年ぶりってことか」
「そう。それで、これが最後だろうね。もう知らない人の家になっちゃうんだから」
これから建つ家は、きっとこいつが住んでた家とは似ても似つかぬ家になるだろう。そこにはこいつとは縁もゆかりもない奴らが住むんだろう。
「家のことは覚えてるんだ。親の顔も忘れちゃってるのに。昔ながらの和風建築で、縁側があって、その下にいつの間にか黒猫の親子が住み着いてて、時々餌やったりしてた。……あの子たちは無事に逃げられたかなあ」
今建てているのは畳の部屋も瓦屋根もない家だ。縁の下などあるはずもない。
ふと思い出した。
瓦葺きの、縁側がある家。そうだ、この辺りだった。一度だけ、修繕で来たことがある。老夫婦でも住んでるのかと思ったら意外と若い夫婦だったから印象に残ってる。……小学生ぐらいの男の子がちょろちょろとしていて、いちいち俺に何をしているのかと尋ねてきたっけ。危ないからどいてろって言ったら、言ったんだ、そのガキ。「かっこいいなあ、ぼくもお兄さんみたいな大工さんになりたい」って。あの時は面倒で俺は鳶だとは教えなかった。というか、まだ鳶とは名乗れないような下働きの身分で、自分の仕事に誇りもへったくれもなかった。ただ、確かにあの時、俺は初めて他人に「かっこいい」と言われて、ひどく嬉しくて。だからこうして今もこの仕事をしてる、かもしれない。
◇◆◇◆◇
「おー、なんだ、お客さんか」
タバコの臭いが漂ってきたと思ったら、棟梁と先輩たちが戻ってきた。たぶんメシの後、一服してきたんだろう。
「お疲れ様っす。えっと、この子は」
俺が黒川を紹介しようとすると、そこには誰もいなかった。
「昨日からやけにおまえに懐いてるな、そいつ」
「は?」
その時、足元からニャアという声が聞こえた。視線を落とすと、黒猫がいた。
「また塩鮭なんかやってるんじゃないだろうな。かわいそうでも、猫の体には毒なんだからな」
「え、いや、そんなことは……あれ、こいつ」
黒猫の前脚には、ただれたような火傷の痕があった。
(了)
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*iqイケそな正解者景品作品 むにさんからのリクエストお題は「工事現場のお兄さん」
縦書きの画像版はこちらから
https://fujossy.jp/notes/23871
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