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第145話 オランジェット *「その恋の向こう側」番外編
前作「オレンジピール」と合わせてお読みいただくと、より甘い。
https://fujossy.jp/books/4768/stories/199682
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「ただいま」
「おかえり。……何それ」
和樹の手には紙袋があった。行くときにはそんなものは持っていなかったはずだ。
「夏みかんみたいなの、もらった」
「また? 誰に?」
「同僚」
また、と言うからには前例がある。そのときは「かぼす」だった。確か大分の出身だという当時の隣人が、郷里から送られてきたそれをお裾分けしてくれたのだ。
「世の人は、おまえの顔を見ると柑橘類をあげたくなるのかね」
「知らんがな」
「で、今回はどこの人? 夏みかんってどこの特産だっけ」
「都内の人。住んでるアパートの庭に自生してるらしいよ。大家さんに好きなら勝手に取って食べていいって言われてるんだけど、大家さんも何ミカンなのか知らないんだって」
「謎の柑橘系……」
見た目ははっさくか夏みかんに見えるが、それらが果たして二月のこの時期、東京で旬を迎えるものなのか、涼矢も知らない。
「売り物じゃないし、あまり甘くないとは言ってたけど」
和樹の補足を聞きながら、涼矢は三個のうちの一つを手に取る。顔に寄せても、柑橘の香りはそう感じない。
「勝手に生えて勝手に実が生ったってことか」
「うん。何も手入れしてないのに大量に生るんだってさ」
「てことは、無農薬だな」
「だろうね」そこで和樹は何かを思い出したように「あ」と小さく声を上げる。「またジンジャーエール作ってさ、それに入れたら?」
かぼすのときにはそうした。だが、絞って香りを楽しむだけにしては大量にもらったので、その大半を実家にまで持ち帰った涼矢は、その半分ほどはマーマレードに仕上げた。マーマレードは自分と母親の胃に収まり、和樹には話していない。
これもマーマレードにするかな。
心の中でそんなことを考えながら、試しに一つを半分に切ってみた。皮がかなり分厚くて、そのまま食べるには可食部分は少なめだ。
「いい香り」
肩越しに覗き込んできた和樹の言葉に、涼矢はハッとする。皮の上からではあまり感じなかった爽やかな香りが、確かに漂っていた。
「なんだか思い出すな。涼矢が作ってくれたやつ。オレンジピールに、チョコかかってた」
「ああ、オランジェットか。そういやそんなのも作ったな。あれきりだけど」
「オランジェット?」
「おまえが今言ったそれだよ。オレンジを甘く煮て、チョコかけたお菓子」
「へえ」
「そうか、それにすればいいのか」
涼矢はひとりで納得して、うんうんと頷いた。
「作るの大変?」
「いや? ジンジャーエール手作りするより簡単」
「だったら俺にも作れる?」
「和樹が?」涼矢は和樹と顔を見合わせる。「作れる、って言ったら作ってくれんの?」
「うん。だっていつも作ってもらってばっかだし」
「そりゃ誕生日だからなあ」
涼矢にとっての二月十四日は、バレンタインより何より和樹の誕生を祝う日で、チョコに関しては年によってあげたりあげなかったりだ。その中でも手作りのチョコなどを渡したのはそのオランジェットのときしかない。
「よし、じゃあ誕プレは誕プレでもらうけど、それは俺が作るよ。俺からおまえに、バレンタインプレゼントってことで」
「マジ?」
「おう。おまえに頼らず、一人で作ってやりますよ」
和樹は既にスマホをいじって作り方を検索しはじめていた。その結果として一人で作れそうと判断したのだろう。
「砂糖、こんなに大量にねえな。あと、チョコか。ビターチョコ。この二つは買ってこないとないや」
「買い物行く?」
「いやいや、そこからがプレゼントですから、わたくしめが買いに行って参ります」
「……じゃあ、そうしてくれる? 俺、メシのほう準備するから」
「オッケー」
狭いキッチンのこと、大柄な男二人が並んでの作業はしづらい。和樹がキッチンに立つ前に、あらかたのことは済ませておかなければ。涼矢は心の中で調理の手順をシミュレーションする。
誕生日ディナーのほうの買い出しはとっくに済ませてある。とはいえ和樹のリクエストは例の如くハンバーグだったから、そう凝ったことをする必要もない。何しろ仕上げにチーズを載せてやるだけでもやたらとテンションを上げるのが和樹だ。お互い二十歳も過ぎたというのに、いつまでもままごとのようなイベントの楽しみ方をしている。
それもこれも和樹の、ハンバーグだのオムライスだのを殊更に喜ぶ「おこちゃま舌」のせいだ、と涼矢は思う。それを口にすれば和樹は馬鹿にするなと怒るに違いないのだけれど、そんな風に思ってるわけではない。それは和樹にとっての「母親に愛された記憶」だ。あるいは今も愛されているという自信。そういう愛情を注がれて育ってきた和樹を、だから、愛している。
ビターチョコと砂糖を買って帰宅した和樹に調理場を譲り、涼矢はその後ろ姿を眺めた。
「あんまり見んなよ、緊張するわ」
背中に視線を感じたのか、皮を切り分けながら和樹はそんなことを言った。
「裸エプロンだったらいいなぁと思って」
「あ?」和樹は振り返る。眉を歪めて、威嚇するように涼矢を見た。「だったらまず、おめえがやれ」
「いいよ」
涼矢は笑いながら答えた。
「きっしょいわ」
和樹も笑いながら言う。
「ひどいな、前は最悪にぐちゃぐちゃなメイド姿も褒めてくれたのに」
「あれはちゃんと服着てただろ。メイド服。ぐちゃぐちゃでもなかったし」
高校の頃の文化祭で、涼矢はメイドのコスプレをさせられていた。鏡に映るみっともない姿に落ち込んでいたのをフォローしてくれたのも和樹だった。告白も何もしてなかった頃の話だ。――とっくに恋には落ちていたけれど。
「和樹はちゃんと鍛えてるし、体型もきれいにキープしてるだろ。裸エプロンこそ正装じゃない?」
「バカ、どんなマッチョだって正装じゃねえわ。……あ」
「ん? どうした」
「湯煎でチョコ溶かすって。四五度ぐらいって書いてあるんだけど、温度どうやって測るんだ? 四五度じゃ体温計でも測れねえよな?」
「三六度だとしても体温計は使うな」
涼矢は和樹の隣に立ち、鍋で湯を沸かしはじめた。かと思うと、そこに指を入れる。
「四五度ったら熱めの風呂だろ。指がギリギリ入れられるぐらいの熱さだと思えばいいんじゃない?」
「そんなんでいいの?」
「さあ。俺は調理用の温度計使ってるけど、ここにないし、仕方ない」
涼矢と入れ替わりに和樹が湯に指を突っ込んだ。
「お上品なお菓子作りしてるつもりが、途端に雑な料理って感じになったな」
「雑な作り方するお詫びに裸エプロン」
「それとこれとは関係ねえだろ」
「俺がおまえのために作る料理は、それはそれは気を遣って、温度管理も繊細に……」
「……わーったよ」
茹でこぼしたピールに砂糖をまぶして馴染ませている間に、和樹は服を脱ぎ、即座にエプロンをつけた。
「フリフリのエプロンだろ、そこは」
「そんなの持ってるわけねえだろ」
和樹が身につけたのは中学か高校の家庭科の時間に縫わされたエプロンだ。いつの間にか母親が荷物に入れていたのを見つけたときには、こんなものを使うことはないだろうと思っていたが、まさかこの場面で使うことになるとは。
「いいねえ、最高」
涼矢が手を叩いて囃したてる。
「一メートル以内に近づくなよ。つか、なんで俺、誕生日なのにこんな目に遭ってんだ」
「いいんじゃないの、生まれた日だから生まれたままの姿で」
「おまえの誕生日、覚えてろよ?」
「だから、見たいならいつでもやってやるって言ってるだろ」
「そう言われると見たくねえわ。……アチッ」
和樹がいよいよチョコの湯煎を始めたようだ。
「大丈夫?」
「ああ。いいからこっち来るな」
「心配してるのに」
「大丈夫だから。……あ、やべ」
「今度は何」
「チョコを絡めたらクッキングペーパーに並べる、だって」
「買ってきてないの?」
「材料に書いてなかった」
「ちゃんと一通り読めよ」
「……ラップじゃダメかな」
「いいんじゃない? 多少形悪くなったって、自分たちで食うんだし」
「……ごめん」
「別にいいけど」涼矢は背後から和樹に近づいた。「その代わり、一メートル制限、解除して」
「う」
やがて涼矢の手が伸びてきた。溶けたチョコに指を突っ込むと、和樹の頬にくっつける。
「何するんだよ」
「和樹に絡めても美味しそうだなぁと思って」
涼矢の舌先がそのチョコを舐め取って行く。
「バッ、そ、そんなことしてる場合じゃないだろ、ほら、チョコ固まってきちゃうし」
「うん、じゃあ、続きはまた後でね」
涼矢はあっけないほど飄々と元のポジションに戻った。
見られているのか。見られているのだろう。裸の背中を。尻を。ふくらはぎを。和樹はさっき以上にその視線を気にしないわけにはいかなかった。
夕食を終えた頃には、冷蔵庫に入れたオランジェットがいい具合に冷やし固められているはずだった。
和樹は恐る恐る冷蔵庫の扉を開け、オランジェットを皿に載せ、涼矢の前に差し出した。見た目は少々不格好だ。
どうぞ、とジェスチャーだけで伝えると、涼矢はその一つを手に取り、口に入れた。
「うん、悪くない。いや、結構行ける」
「ほんとに?」
和樹は自分でも食べてみる。うん。悪くはない。涼矢ならもっとうまく作っただろうけど、俺にしては上出来だ、と思う。
「まぁ、まずくなる要素ないもんな」
和樹がそう言うと、涼矢はくわえ煙草のように、細長いオランジェットを口にくわえた。
「もっと美味しくなる方法」
「またそれかよ」
前回もこんなことをした。和樹は苦笑して、その一方をかじり始めた。一口、二口と進めば、涼矢の唇がそこにある。
ビターチョコレート。砂糖で煮詰めたピール。そして、何より甘いその唇に、そっと、触れた。
(終わり)
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