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第147話 白旗前夜 ( for 服部依明様)
まことに将軍の判断は正しい。我が軍はわずか三千を残すばかり、対して遠目に見える灯りの数は、その五倍はある。これ以上の犠牲を出したところで何の意味があろうか。先方もそれを分かっているから、あの軍勢でなだれ込めばあっけなく陥 ちるであろうこの城を遠巻きにしているのみ。彼らはもう何をする必要もない。夜が明けて、この城に白旗が揚がるのを待てばよい。
ただ心残りは、まだ少年の面影を残す若き国王に、一度の美酒をも味わわせてさしあげられなかったことだ。
「陛下」
私は王の部屋の扉を叩く。誰が取り次ぐでもなく、間髪入れずに返ってきた「入れ」の声にたじろいだ。聞き間違いかと少しの間を置くが、辺りはシンと静まりかえっている。間違えようがなかった。私は意を決して扉を押し開け、足を一歩、中に踏み入れた。
王の間にふさわしい、全面に美しい彫刻の施してある分厚い木製の扉は、裡 に鉄板が仕込まれているのだろう。その扉の重さも、たった今知った。普段ならしかるべき取り次ぎの後に、うやうやしく国王付きの従者が開閉をして、自らの手を使うことはないのだ。案の定、室内にも人気 がない。心許なくゆらめく蝋燭の灯火 だけが、ひとり窓辺に佇む王をぼんやりと浮き上がらせていた。
「いかがなされましたか。外にも中にも誰もいないではありませんか。こんな夜におひとりでいらっしゃるのはあまりにも」
「僕が命じたのだ。ひとりにしろと」
その命令が昨日であれば、素直に従う者はいなかったであろう。少なくとも護衛の兵ぐらいは、何らかの形でそばにいたはずだ。
だが、もう、今日だ。明日の朝にはこの戦が終わるのは厨房の下働きとて知っている。王は既に命を賭して守るべき対象ではない。
「おひとりになりたいのなら、私もいないほうがよいのでは」
「この期 に及んでまだそんな意地悪を言うんだね、おまえは」
薄暗がりの中で、王が笑うのが分かった。即位して以来見ることのなくなっていた愛らしい笑顔。つまり一年ぶりの笑顔というわけだ。
前国王が突然の病で急逝した上に、後を追うように、即位式を目前にした兄王子までもが事故死した。そうして予定外にその座に就いた弟王子。兄君が亡くなったのが"彼 の国"との国境 に近かったことで謀殺説がまことしやかに語られている中、兄君ほどに帝王教育を受けているわけでもない弟王子が王座に就くと、当然の成り行きのようにすぐさま"彼 の国"から攻撃が仕掛けられてきた。
よく一年耐えたと思う。我が国はそう軍事に長けているわけではない。この一年、なんとか国としての体裁を保ってこられたのは、前国王の妃の母国が後ろ盾となってくれていたおかげだ。その妃は前国王と第一王子の喪が明けると同時に母国に戻った。尼僧になると言っていたが、その実、嫁いできたときから付き従っていた側近の一人と仲睦まじく暮らしているという噂もある。一人死のうが王子を二人産んだのは事実、義務は果たしたとでも言いたいのであろう。それでもその後も我が国への軍事援助は続け、妃の非礼を申し立てる隙も与えなかった。そうして、前国王の葬儀のきっちり一年後に最後の駐留軍が引き揚げていき、我が国はあっけなくうち捨てられた形となった。
王を失い、軍事的後ろ盾を失い、残るは若い新王とわずかな農地、そして荒れた岩山という我が国であったが、その岩山を深く掘ればなにがしかの貴重な鉱石が出てくることが知れたのは、今からたった数十年ほど前のことだ。このような小国が近隣諸国から狙われる理由はそれだった。
「土掘りの人夫が大量に必要だろう。僕もおまえも殺されることはあるまい」
王が呟いた。明日、敵に捕らえられたとて、まさか国王たる者がそのような仕事に就かされるとは思えなかった。見せしめに処刑されるほうがずっと有り得る話だ。だが、さすがにそうは言えない。
「私はともかく、陛下にそんな力仕事は無理でしょう」
「ああ、この一年ですっかり身体がなまってしまったからね」
「昔は五分とじっとできない子供でいらしたのに」
思わず昔語りをしてしまう。勉強熱心だった兄君と正反対に、弟王子は目を離すとすぐに城を抜け出し、山や川で農民との子供と一緒になって遊んで帰ってきたものだ。だが、そのときの体験が案外と役に立ち、やれこの地質は粘土質で車輪は働かない、やれここは増水すると島になりうまく使えば袋小路に追い込めると、軍師に教えて驚かせたりもした。
「おまえにはよく叱られた」
王の苦笑いは、手にした燭台に照らされてよく見えた。そのままだんだんと私に近づいてくる。
「約束は取り付けてある」
「誰と? 何を?」
「おとなしく降伏すれば民には手を出さぬと。なに、簡単なことだ。あちらも次の戦が控えている、兵士は多いに越したことはない。鍬 しか持ったことのない我が民でも訓練すれば弾よけ程度にはなると踏んでのことだろう。もっとも、我が民に兵隊など務まらぬし、務めさせるつもりもないが」
「何の話をなさっているのです?」
「三つ巴だ」
王は空に三角形を描いた。
「"彼 の国"も母君の国も我が国の資源が欲しい。母君の国は他の国から我が国を守るという名目で同盟を結んでいた。だが、ここに来てそんなまだるっこしいことはやめ、さっさと国ごと取り込むことにしたのは知っておろう。ろくに躾もされておらぬ僕が国王になった今、赤子の手をひねるより簡単だと思っている。知っているか、母君は一人で心細いでしょう、母の国とひとつになりましょうと使者を送ってきたのだよ。随分と野心に溢れた尼だと我が母ながら呆れるが、まあ、それはいい。ところで、その使者の書状は僕の元へは届かなかった。途中で騙し取った者がいる。"彼 の国"からの間諜だ。彼らは母君の国の企てを知り、この小国を横取りされる前にと仕掛けてきたのが今般の戦だ。"彼 の国"はこの戦に勝利した後には、逆に母君の国までもを手中に収めるつもりなのだ。我が国の地下資源があればそれも夢ではないしな」
「……それは三つ巴ではありませんな。ただこの国を大国ふたつが奪い合っているだけの話。我らはどの道、どちらかに下る運命」
「そうかな?」
王は燭台を花台に置いた。少し前まではそこには日々新しい花が飾られていた。籠城を始めて以降はそんな余裕があるはずもない。
「国民の大半は疎開を済ませ、ここにいるのはわずかな兵ばかり。城内の食糧は尽き、明日が限界。将軍もそうと覚悟なさったのはお聞き及びでしょう」
「当たり前だ、僕がそう命じたのだ。明日にはこの戦は終わりにする、と……いや、もう今日になったか」
「まだです。まだ日は変わっておりませぬ」
「おまえが遅らせたからか? 私の目に入る、この城の時計すべてを」
「なっ……」
「だが、残念ながらそれらはすべて元に戻しておいた」
私は慌てて懐中時計を取り出す。これは細工をしていない、正しい時を刻むもの。
「今となっては小細工がされているのはそれだけだ。おまえが今、手にしているその時計」
そんな馬鹿なと、私は時計を裏返す。そこには私の頭文字が刻印されている……はずだった。だが、目に飛び込んできたのは、王の名の頭文字。
「おまえが唯一僕にくれた、大切な時計だ。きちんと手入れをしてやれば一秒の狂いもない。見事なものだ。これもそう」
王の手にはもうひとつの懐中時計があった。上蓋に一風変わった文様の彫金が施してあるのは特注品だからで、同じ物はこの世にふたつしかない。私の手にあるものが王のものだと言うのなら、王が手にしたそれこそが私の懐中時計であることは明白だ。かつて幼き日の彼は、私が朝に晩にそれを見るのを不思議がり、これがあれば時が分かるのだと教えるとひどく羨ましがった。そんな彼に、時計職人に申しつけてもうひとつ同じ品を作らせて献上したのは、何の裏もない。一介の家庭教師の私に懐いた彼が、心底愛しく思えたからだ。王族とは縁遠い私は城の中に味方も少なく、「やんちゃな弟王子が唯一言うことを聞く男」という名目だけが、私の身を保障してくれていた。
「ずっと正しく同じ時を刻んできたのに、こちらだけわざと狂わせるなんて心が痛んだけれどね」
彼は燭台の隣に二つの時計を並べて置いた。
「……いつから? いつ気付いたんです?」
「母君が国を去るとき。夜中にこっそり私の部屋に来て言った。すぐに迎えに来ますって。それから、あの家庭教師には気を付けなさい、あの男は"彼 の国"から遣わされた刺客です、と」
「それを、信じた?」
王は悲しそうに微笑んだ。「最初はそんなはずがないと思った。けれど、そう思うと辻褄が合うことが多すぎた。決定打は兄上の事故だ。あの日あの場所にいたのを知っていたのは限られた者だけだった。事故に見せかけられる機会があった人間と掛け合わせれば、兄上を殺めたのは僕かおまえしかいなかった」
「では、陛下かもしれませんね。兄君が亡き者になれば王位はあなたのものだし、実際、そうなった」
「僕が死んだら、死人に口なしでそういう筋書きにするつもりだったのか? 兄を殺した僕を殺すことは罪には問われず、晴れてこの国はおまえの領地となる。そういう約束だったのだろう? ……"彼 の国"の第五王子。この上蓋に彫りつけられている文様は、おまえの家に代々伝わる意匠だな?」
私の口からはつい笑いが漏れた。そこまで知っておきながら、今更、私に何を言わせたいのだろう。
「国など、要らない。あなたと違い、私には丈夫で優秀な兄上が四人もいて、祖国が私のものになることなどありえない。この国だって特段欲しいわけではない」
「ならば何のために兄上を殺めた? 何のために僕を騙した?」彼の目にはみるみる涙がたまった。「僕は信じていたのに。今だって、何を馬鹿なことをと諫めてくれるとばかり思っていた。そしたら、信じようと思ってたのに。ずっとおまえだけだったのに。おまえだけが僕の味方だと思ってたのに」
「私もですよ」
私はすがりついてくる王を抱きしめた。私の腕の中で、彼は泣きじゃくった。出会った頃、まだ幼かった彼の悪戯が過ぎて叱っても泣くことはなかったのに、飼っていた鳥が死んだときにはこんな風に泣いたものだ。彼は自分のためには泣かず、いつも誰かのために涙を流した。では、今は、誰のために。
「ご存じなら話が早い。そろそろ計画をお話ししましょうか。日が昇らぬ内にあの軍勢はこちらに向かってきましょう。明日の朝に降伏する、それを見越して手出しをしてくることはないだろうと油断している隙をつき、一気に城を陥 とします。――しかし、ご安心ください、その頃にはあなたはとっくに遠くに逃げおおせている」
私の計画に余程驚いたのか、王の涙はひっこんでしまったようだ。しかしまだ赤い目をしていて、その目を大きく見開いて私に詰め寄った。
「私だけか? おまえは……城内に残る兵士たちはどうなるのだ?」
「いくらかの犠牲はやむを得ません。その中からあなたに背格好の似た者の首を持ち、私は祖国に凱旋します」
「僕が死んだとなったら、母君が許さないよ。むざむざこの国を奪われるのを指をくわえて見ているはずもない。また新たな戦が始まるだけだ」
「そんなことはどうだっていいのです」
「え?」
「あなたが生きてさえいれば」
十年前、私は身分を偽り家庭教師として城内に潜り込んだ。私の役割は三日後か、一年後か、五年後か分からないが、祖国からの合図を待ち、その時が来たらこの国の王家を根絶やしにすることだった。しかし案外とこの国は厄介だった。前国王は軍師としても優秀であったし、その妃は同盟の人質代わりに嫁がされたとは思えぬほどの豪胆な女であった。それゆえに我が祖国も交えたこの三つの国は、互いの隙を虎視眈々と狙いながらも戦になることはなかった。均衡が崩れたのは、前国王の病死。あれは誰にとっても予定外のもので、人の世のはかなさを思い知らされた。間もなく私の元に伝令がやってきて、ようやく十年越しの命 を伝えてきた。
――そうだ。そうとも。あなたの兄君を手にかけたのは私だ。兄君とて情が湧かないわけがなかった。出会いのときには既に王家の風格を備えていた彼は、あなたほどには私に懐かなかったけれど、それでも私を師と呼び、礼を尽くしてくれたのだから。だが、だからこそ益々今のうちに処理しておかねばならぬとも思ったのだ。あの聡 い兄君が生きている限り、あなたはあなたの上っ面しか知らぬ者たちに愚弄されつづけるだろう。私はそれが我慢ならなかった。
あなたは私がいつか殺さねばならぬ敵であり、同時に唯一の味方であり、弟子であり、友であり、息子であった。あなたは私のすべてだった。いつまでもあなたと共に生きてゆきたかった。それが叶わぬのなら、自分の手で終わらせるしかなかった。
「それに僕が逃げたとて……おまえはどうなるのだ。偽りの首などじきに見破られよう。これでも一年、王として生きてきたのだ、僕の顔を知る者は少なくない」
「いいのです。真相が暴かれる頃にはあなたはもっと遠くに逃げておいででしょう。この三つの国のどことも利害のない国に使いを出してあります。北の山を超えた向こう、川をひたすら、更に北へと。この辺りの地形を誰よりご存じのあなたなら迷いなくたどりつけるはず」
「いつの間にそんなことを考えていたのだ」
「さあ、いつからか」私はあなたをより強く抱き寄せた。「自分でも分からないのです。初めてお会いしたときだったかもしれませんし、たった今、覚悟を決めた気もいたします」
腕の中のあなたが顔を上げ、私の顔を見つめた。
「僕は覚えている。初めて会ったときだ。おまえを我が物にすると、そう決めたのは。先の王……我が父上も、母上も、兄上も、みな分不相応な野心を抱き、僕を顧みなかった。おまえだけだ、まっすぐに僕を見て、悪いことは悪いと叱り、世の道理を教えてくれたのは。そして、小鳥が死んで泣く僕の手を握り、慰めてくれたのは。だから、そう決めたのだ。おまえだけは離すまいと」
「……とっくにあなたの物ですよ」
「ならば一緒に逃げよう。僕とて北の山のことはそう多くを知らない。一人では心細い」
「それでは時間稼ぎができません」
「捕らえられたら、そのときはそのときだ」あなたは私の両の頬を手のひらで包むようにした。「一緒に死んでくれ」
「鉱石掘りをやらせるため、殺されないという話だったのでは?」
「馬鹿なことを。そんな戯れ言を信じるおまえではあるまい」
あなたは笑った。愛くるしい笑顔ではない。一人前の、大人の男の自信に満ち溢れた笑顔だ。この場でなんの自信があるのかというのか。
「城内の兵を見殺しにするのですか」
「ああ」
「我々を探し出すため田舎にまで兵が押し寄せ、罪なき民もひどいめに遭うかもしれません」
「そうだろうな」
「当主が逃げたとなれば母君の国からもここぞとばかりに」
「そういえば母上の国は特に残虐非道で有名だったな。女にも子供にも容赦しないと」
「それでも」
「構わない。おまえといられるなら。二人で生きてゆけるなら」
それはつい今しがた、私が願い、諦めた言葉だ。
「私ひとりのために、あなたを守る兵もあなたを慕う民も捨てると仰せで?」
「当たり前だ」
私はふたつ並んだ時計を見た。
「しかしやはり……どう考えても二人では逃げ切れません。時間がない」
「ならば逃げも隠れもせぬ」
「この城で、王として死ぬおつもりですか?」
「いいや」あなたは私の首に腕を回し、口づけを求めた。私に断る理由はなかった。「おまえの恋人として死ぬ。逃げるには足りずとも、そのぐらいの時はあろう」
「もしや人払いは、そのために?」
ふふ、と笑うあなたを見て確信する。はなから逃げる気などなかったのだ。ひとりだろうが、ふたりだろうが。あなたはただ、ここで、私と最後の夜を過ごすと決めたのだ。それを伝えるために、人払いをし、私を呼びつけたのだ。
私はあなたを抱きかかえた。私の敵、唯一の味方、弟子であり、友であり、息子であったあなたを、寝台に運んだ。あなたは私のすべてだ。生涯ただひとりの、私の恋人だ。
「お慕いしておりました」
「知っている。……さあ、今こそ真に、僕の物になれ」
夜明け前には私の祖国の兵たちが一斉にこちらに向かってくるだろう。愛し合える時間は短い。予定より早く、まだ暗いうちに白旗を揚げておけと将軍に言っておかねばなるまい。そして、それが王の最期の言葉となるだろう。
だが、今は。
まだ闇深い今だけは、腕の中の恋人と共に、儚い夢を見ていたいと思うばかりである。
(完)
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*iqイケそな正解者景品作品 服部依明さんからのリクエストお題は「三つ巴」
企画から一年以上経過してしまいました、すみません本当にすみません(滝汗)
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