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第148話 トリック オア トリート

 特別なことは何もないよ、と彼は嗤った。それから、これを着てついておいで、と畳んだ布地を僕に渡した。広げてみるとひきずりそうなほどの長いマントだ。フードも大きく、被れば顔の大半がすっぽり隠れた。  匂いは消したし、あとは声さえ出さなければ気付かれることはないだろう、いいね? 彼はそう言って人差し指を立て、僕の口に当てた。まるで封印のまじないだ。僕の口はもう二度と開かないような気がする。  その指は昨日は僕の背骨をなぞった。鎖骨に触れもした。腰はしっかりと両手で押さえつけられ、身動きの出来ない僕に、彼は何度も侵入してきた。はじめは恐怖でカタカタと奥歯を鳴らしていた僕だが、気が付けば夢中になって彼にしがみついていた。  そうだ、いい子だ、もっとちゃんと感じてごらん。体の奥まで、私が入り込んでいるだろう? 私の熱さが分かるかい? 気分はどう? 気持ちいい? いいんだよ、もう、君を傷つける奴なんかいやしないんだから、正直に言ってごらん?  彼はそう言ったが、僕はただ喘ぐだけで精一杯だった。  ああ、そうか。僕は不意に気づく。匂いは消したって、そのことか。昨夜からさっきまで、ほぼ丸一日抱き合った僕ら。彼の香水混じりの甘い体臭、それから少し生臭い体液の匂いで、僕の湿った陰鬱な香りはすっかり打ち消されてる。  さあ、着いた。ほら、懐かしいだろう?  子供達のはしゃぎ声。トリックオアトリート。ねえ、ママ見て、パパったらおかしいの、あれでスパイダーマンの仮装したつもりなんだって。ちょっとお姉ちゃん、それは僕のチョコバーだよ、返してよ。  懐かしい。うん、そんな感情を久しぶりに思い出した。かつては僕もその光景の中にいた。ジャック・オ・ランタンを飾り付けた家々を回り、魔女やモンスターの扮装をした近所のおばさんたちからお菓子をもらい、友人や姉や弟とお互いの成果の見せ合いっこをしたものだ。  あれは何軒目の家だったっけ。町外れの大きな洋館。その入り口の門に飾られていたジャック・オ・ランタンには灯がともされていなかった。でも何かの弾みで消えちゃっただけなんだろうと思って、僕は門を開けた。 「トリック・オア・トリート!」  僕はひときわ大きな声で言った。そうしないと館の奥まで届かないと思ったから。それほど立派な石造りの館だった。こんな町外れまではみんな来ない。僕はウキウキした。我ながらいいところに目を付けた。この家ならさぞかし高級なお菓子がたんまりともらえるんじゃないかと期待した。  次に目覚めたのはいつだっけ。  いいや、目覚めることはなかったのだ。  あの晩以降、僕が目を開けたのは……昨日が初めて。昨日、この男が、僕の眠る、暗く湿った土中の柩を開けたのだ。いや、それでも僕は目覚めなかった。だって、目玉なんかとうに腐り落ちていたもの。  そう、今でも。  僕の眼窩に目玉はない。ひきずるほど長いマントの下にあるべき肉体もない。あるのは骨ばかりだ。この男にずっと触られていた背骨、鎖骨、肋骨、大腿骨。両の手でがっしりとつかまれた腰の骨。 「オア……アン!!」  僕はお母さん、と叫んだ、つもりだった。弟の声、その呼びかけに答える母の声が聞こえた気がしたからだ。お母さん、僕だよ、帰ってきたよ。ハロウィンの日、この男に捕まって、弄ばれて、殺された僕だよ。  でも、お母さんには聞こえなかったみたいだ。眼球のない僕は何も見えない。聞こえたと思ったのも幻聴だったのかもしれない。だって僕、とっくに死んでるんだもの。 「声を出したらいけないと言っただろう? 仕方のない子だね。一日ぐらい家族に会わせてやろうと苦労して蘇生させてやったのに」  ああ、そうか。僕は失敗したのか。  再び崩れた骨へと戻った僕の上に、マントが広がった。 (完)

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