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第151話 可燃性
全てを失った後に、ただ一人、君がいた。燃えさかる炎を前にして、僕は呆然と立ち尽くす。そんな僕の肩を抱き寄せて、大丈夫だ、俺がいるから、と励ましてくれた声が、今も耳から離れない。
夜ごとの悪夢が僕を痛めつけ、夜中に何度も飛び起きる。決まって汗びっしょりだ。君は文句も言わずに替えのパジャマを持ってきて、僕の体を拭き、着替えさせてくれる。また怖い夢を見たの?と君が問いかける。頷くと同時に涙がこぼれた。大丈夫だよ、俺がいるから。朝まで隣にいてあげるから。僕の涙を指先で拭いながら君は言い、当たり前のように僕の隣に腰掛け、肩を抱く。あの日の声と重なって、君の隣が息苦しい。苦しいのに、君がいないことには一日とて生きられない。
あれは不幸な事故だった。僕の顔を見るとみんなそう言うのだ。新婚の妻が慣れない料理に挑戦中、コンロの火が服に燃え移り、新居に搬入したてで梱包を解いてもいない段ボール箱に次々に燃え移った。彼女の身支度に必要な化粧品やヘアケア製品類だけは早々に開封されていたのが徒となり、何本もの可燃性のスプレーが火の回りを早くした。
そうして、連絡を受けた僕が慌てて帰宅したときには、長期ローンを組んで建てた新居は既に炎に包まれていたのだ。
そうだ。あれは実際、不幸な事故だった。
君を忘れるために好きでもない女性と結婚した。彼女は僕を愛してくれた。苦手な料理を頑張ってくれるのも、いつだってきれいな巻き髪でおしゃれしてくれるのも、その一端だ。その愛に応えたいとも思っていた。けれど彼女の愛は深すぎて、やがて僕の本当の想い人のことまで調べ上げてしまった。もちろん僕らも馬鹿じゃない。バレるような証拠は何一つ残してこなかった。だが、いわゆる「女の勘」というやつで、彼女は真実にたどりついてしまったのだ。
どういうことなの。ゲイのくせに嘘ついたの。学生時代からつきあってて、会社まで同じなんですって? 私に隠れてこれからも続ける気なんでしょ? 問い詰める彼女にどんなに弁解してもダメだった。ずっと昔のことだよ、学生時代のじゃれあいみたいなものさ。今は君だけだ、君のことを大切に思ってるんだ。言えば言うほど言葉は空回りした。そう、大切にしてくれるのね。でも愛してはくれないのね。私がこんなに愛しても、あなたが愛するのはこの男だけなのね。彼女は君の写真を破り、職場にバラしてやる、と叫んだ。
とにかく落ち着いて話を聞いてくれと近づいたら、彼女は怯えて後ずさった。その足元の床には、あんなに辛い思いで振り切った君が、バラバラになって散乱してる。僕は写真の破片を拾い集めた。彼女は泣き出した。信じられない、そんなにその男が好きなの。そんな男のどこがいいの。ああ、結婚なんかするんじゃなかった。あなたのせいよ。全部あなたのせいだからね。
その通りだ。全部僕が悪い。君を傷つけ、彼女を苦しめた。いたたまれなくなった僕は、なじり続ける彼女から逃げようとした。でも彼女が僕の腕をつかむものだから、必死になって振りほどいた。その弾みに彼女がコンロ方面によろけた気がしなくもないが、こっちも無我夢中でよく覚えていない。火事が起きたのはその直後のようだ。
俺が勧めなければよかったなあ、あんなガウン。
君はぽつりと呟いた。たっぷりとしたドレープのガウンは化繊で、燃えるとたちまち肌に癒着し、脱ぐにも脱げなかったはずだ、と後日警察から聞いた。僕がプレゼントしたそれは、センスのない僕に代わり、君が見立ててくれたものだった。そうだ、僕たちは友人に戻り、そして互いの新しい人生を歩もうと決意して、その証に君が選んでくれた彼女のためのガウン。
そのときの彼女は僕を疑うことを知らず、プリンセスみたいだと無邪気に喜んでくれていたのだけれど。それを伝えると、プリンセスにはこれもお勧めだよ、と、舞台俳優が使うというプロ仕様の強力なスタイリングスプレーを教えてくれた君。さも僕が仕入れた知識のように彼女に言うと、彼女は嬉々として買ったが、さすが本格派ね、業務用しか手に入らなかったわ、と一ダースも入ったスプレーの箱を笑いながら見せた。愛せはしなかったけれど、そんな彼女を可愛いと思ったし、もしかしたら一生添い遂げられるかもしれないとも思ったんだ。しかし、そんな日々は、ほんの一瞬だった。
ご主人ですか。ああ、彼とは同僚で、その時間は一緒に外回りをしていましたよ。君がそう証言して、火事は「不幸な事故」の扱いで落着した。実際その日は二人で営業回りをしていた。だが、その途中に浮気を勘繰る電話がかかってきて、弁解のために僕一人こっそり一時帰宅していたのを疑われてはならないと、君は庇ってくれたのだ。
僕は妻も家も失った不幸な男として好奇の目に晒されるのに耐えきれず会社を辞め、以降、君の世話になりっぱなしだ。だが、ようやく本来のあるべき姿になれた気もしてしまう。
いつまででもいていいよ。いや、いてほしいんだ。愛してるよ。
君は友人に戻ろうなどと一度は別れを告げた僕を許し、更には甘く優しい言葉を惜しまない。
僕もだ。愛してる。本当はずっと君だけを愛してた。君がいてくれてよかった。
僕の言葉に満足そうに微笑むと、情熱的なキスをくれる君。ああ、幸せだ。僕は何も失っちゃいない。大切なものは全てここにある。
ただ、今でも悪夢の中で聞こえるのだ。あの日逃げる背中で聞いた、彼女の断末魔。
あなたのせいだからね。
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診断メーカー 「あなたに書いて欲しい物語3」より
古池十和さんには「全てを失った後に」で始まり、「君の隣が息苦しい」がどこかに入って、「あなたのせいだからね」で終わる物語を書いて欲しいです。
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